先日、久しぶりにJRに乗りました。

電車の両サイドの壁に平行に長椅子がついてるタイプの車両です。

隣に座っていた妻がコックリコックリと眠りについているのが目に入りました。

向かいの椅子に座る目の前の男性も、その隣の人も寝ているのをみて、

「この車両に乗ってる人、みんな寝てるなぁ」

と思った自分に気づきました。


まぁよくありがちですよね。


そこで考えたのです。


みんなって、本当かな?


そこで、左方向を見たら、立っている人がいて携帯を触っています。


はい。この時点で、みんなではなくなりました。


僕は素直に、ほとんど寝てるなぁ。

と思い直しました。


さらに疑問が浮かびました。


ほとんど?え?本当に?


そこで、車両に乗っていて見える範囲の10人を、無作為に抽出し、起きている人、寝ている人の数を数えてみました。


すると、起きている人が4人。寝ている人が6人でした。


つまり、


6割が寝ているなぁが正解でした。


明らかに、「みんな」ではないし、

半分ちょっとのことを「ほとんど」と言って良いかというとそうは思えません。



印象というのは、かようにいい加減なものです。


しかし、もし僕があの場で数えていなかったら、僕の日記、あるいは他人に話す時には、


「みんな寝ていてさ~」


と自分の目に付いた範囲の部分のみで話をしていて、他の人たちへの印象作りまでしていることになるんですよね。


みんな、ほとんどという言葉を使うときって、果たして本当に、「みんな」であり、「ほとんど」なのでしょうか。


人への評価、事実への評価が、一部の印象でされることは良くあるので思いました。


特に、よくあるのが、


「うちの子は全く勉強しないんです!」

とか、

「うちの親のいいところなんて何一つない!」

とか、

「あいつは最悪だ!いつも◯◯で!」


なんていう言葉を使う場合、あるいは使う人を見た場合には、そこから浮かぶ「印象」あるいは「記憶」には相当な注意が必要ですね。


そういう意味でも、僕は日記という「記録」をオススメしています。もちろんその記録の仕方も大事だし(印象まみれだと微妙)、読み取る時に繊細さが必要なんですけどね。