はじめまして、亜紀です。

ブログを訪れていただき、ありがとうございます。

 

このブログでは、子供の頃からずっといいようのない苦しみの中にいた私が、幸福に包まれて生きるようになったこれまでのお話をしたいと思います。

それを望めば誰もが、私たちの中心にある「誰もが生まれながらにして持つ幸福」に出会うことができる、もちろんあなたにも降り注ぐ恩寵の物語です。

最初にあなたに、私の師・HARUさんの言葉をお贈りしたいと思います。

 

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あなたが苦しんできた理由はたったひとつです。


それを体験する必要があったからです。


あなたは、あなたの準備ができきたときにこの教えと出会います。


その瞬間からあなたの苦しみは消え始めます。


そしてこれまで苦しみが占めていたスぺースに、幸福が流れ込むのです。

 

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そしてKindleの4ジャンルでダンロード数1位を頂きました。

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ここからは、私・亜紀がHARUさんと出会い、変わっていった奇跡のような物語です。

 

 

孤独感と生きづらさ

 

私は小さな頃から、言いようのない孤独感や生きづらさを感じていました。

幼稚園や小学校でも、自分と周りの子たちは何かが違っていて、まるで自分が刑務所に入れられているような、ずっとそんな感覚だったのです。でもそれを誰にも知らせることも、話すこともできずに、ただ必死に毎日を生きていました。

その頃の私の願いはただひとつ、

「早くこの生を終えて死ぬことができますように。そしてもう二度と人間に生まれてくることがありませんように」

ということでした。

毎晩、寝る前に神様に

「どうぞ、明日目が覚めませんように。このまま私を殺してください」

そうお願いして眠りにつき、朝目が醒めると

「また今日も生きなければいけないのか」

と絶望が待っているのでした。

 

瞑想と神秘体験

 

そんな時期が長く続いていましたが、ちょうど二十才の時に会社の先輩から、修験の修行を終えたばかりというお坊さんを紹介され、私はその人から瞑想を授けられました。

瞑想をするなんて全く思ってもみなかった私でしたが、生まれて初めて瞑想を体験したその瞬間、幽体離脱をしてしまったような衝撃の感覚、そしてそのすぐ後には人のオーラが見えるというような体験をしました。

それ以降、その体験を再び目指して毎日ひたすら瞑想に励む日々がスタートしたのです。

瞑想を続けるとともに、私の目覚めはどんどん進み、さまざまな神秘体験をしました。人の体の中に突然自分の意識が入り込んでしまったり、宇宙空間にポン!と投げ出されたり。時にはそれまで一度も感じたことのなかった心からの至福体験や、それまでとは全く違う仕事で成功している自分のビジョンを見せてもらい、100%その通りになるということもありました。

けれどそれは、私自身になんの知識や情報もない中で次々と起こり、また絶対に人には信じてもらえないだろう、または怪しいと思われるだろうと考えて誰にも打ち明けることもなく長年続けて来たことでした。

そんなことが進む中で、私のスピリチュアルな師となる方が次々と現れて、その素晴らしい方達の弟子となって様々なことを学ばせていただきました。

そして気がつくと、もう充分に幸福で過去のような苦しみを感じることも殆ど無くなっていました。

「今がもう私の人生の最高の幸せだろうな」

そう感じて、すべての学びも辞めて、ただこのまま暮らせれば良いかなと感じていた時に、たまたまネットのビジネスを通してHARUさんに出会います。

 

HARUさんとの出会い

 

HARUさんとの出会いは、ビジネスジャンルのブログでした。

そのHARUさんのアイコンを初めて見た瞬間、それが光って見えたのです。そんなことは初めてで、すぐにそのブログを読んでみました。

すると、HARUさんはもう何十年も年間一億円以上を稼いでいるという億万長者だったのです。私はこの光っていたアイコンの意味も気になり、すぐにメッセージをしてビジネスを教えてもらうことにしました。

HARUさんとZOOMでお話すると、とても優しそうなおじさんという感じなのですが、伝わってくるエネルギーは本当にすごくて、「一体この人はどういう方なんだろう?」と思いながら数ヶ月が経ちました。

そしてあるとき仕事の話から私の体験した瞑想での不思議な経験の話になり、私がその話をすると、HARUさんはそれまで一度も話されなかったご自身の経験を少し話してくださったのです。

その瞬間、

「この人は私の次のスピリチュアルな師となる人だ!!」

と直観し、まだHARUさんの教えがどのようなものかも何も聞かないまま、このHARUさんの教えをたくさんの方に聞いてもらう手伝いをする自分をすでに感じました。

そしてすぐにでも会いに行ってお話を聞かせてもらわなければ、と感じた私は、住んでいる福岡からHARUさんが住む街に会いに行ったのです。

後から聞きくと、最初HARUさんは私のことをストーカーじゃないかと思われていたそうです(笑)。

当時HARUさんは誰とも会わずに生活されていたのですが、せっかく遠くから来てくれたのだから、ということで、ご自身がインドに行って学ばれたことや聖者の教え、これまでに経験されてきたことなどを私に話してくださったのです。

また、世界でもごく限られた人に口伝でのみ伝えられるマントラを授かっておられることも知りました。

 

HARUさんの教えの凄さ

 

そこで話してくださった内容は、本当に直観の通りに私の人生を大きく変える衝撃的なものでした。

なぜ人は苦しむのか、それはどうすれば無くせるのか、揺らぐことのない幸福とは何か、それはどこにあるのか、この世界はどのようにできているのか、というようなことをひとつひとつ本当にわかりやすく話してくださったのです。

それはこれまで誰も教えてくれなかった、そして私が探し続けてどうしても見つけられなかった最後のワンピースだということがはっきとわかりました。

そしてHARUさんのお話をただ聞いているだけで、その内容が私の中に浸透し、自分がこれまでとは完全に変わってしまったことを感じました。

「もしもっと早くにこのお話を聞いていたら、私はこんなに人生で苦しまなくて良かっただろうな」

と思うのと同時に、いま苦しみの中にいるたくさんの方々がHARUさんのお話を聞かれて救われる姿がはっきりと浮かんで来ました。

そして、

「ぜひ、私のように悩んだり苦しんだり、生きづらさを感じている方たちにこのお話をしてください」

とHARUさんにお願いしました。

 

ところが、HARUさんははっきりと断られました。

「僕はもうそれをするつもりはないんです。

以前いろいろなセミナーに呼ばれて話をしていたこともあって、そこで僕の話を聞いた方々にたくさんの奇跡や変化が起こるようになってね。僕自身はそんなこと何も意図していないのに。

でも、ある時から誰かの人生を変える必要なんてないと思うようになったんです。なぜなら、すべての人はそのままで完璧だし、その人はその人にいま必要な人生を生きているんだから」

けれど私には、

「絶対にこの方を説得しないといけない」
と何かの力が働いたように、しつこく何度もあの手この手で説得を続けていると、とうとうHARUさんは私のしつこさに根負けして

「わかりました。そこまで亜紀さんが言うなら、亜紀さんが伝えたいと思った人たちにだけお話をします」

と最後にはそう言ってくださったのでした。

私はそれを聞いて、

「この素晴らしい教えを、それを求めている方に届けることができる!」

と、心底ほっとしたのでした。

 

ディクシャを受ける

 

HARUさんのお話の中で、ディクシャという言葉がありました。ディクシャというのはサンスクリット語で「伝授」を意味し、スピリチュアルな伝統の中で、マスターが弟子に授けるイニシエーションだそうです。

HARUさんは、

「ここまでわざわざ来てくれたから、ディクシャしてあげるね」

と言われ、なんとディクシャを受けさせていただけることになったのです。

 

HARUさんは、ディクシャによって何が起きるかは自分にもわからないけれど、その人に必要なことが必ず起きるとおっしゃいました。
それまでHARUさんがディクシャをされた方々に起こった奇跡のようなことをいくつか聞いていましたが、私自身はすごく健康で、幸せで、何にも不自由していないし、ディクシャを受けてもきっと何も起こらないんじゃないかな・・・そう思いながら、せっかくの厚意をありがたく受け取らせていただきました。

そしてディクシャを受けている間も特別に何かを感じることもなく、終わった後も普通だったので、

「あ~、やっぱり特別なことが起こらなかったということは、私にはそれが必要なかったんだな」

と思いました。

ところが、その後に信じられないことが起こったのです。

 

衝撃の至福体験

 

HARUさんからディクシャを受けて福岡に戻り、寝て目が覚めたときに、その衝撃の体験がやってきたのです・・・。

まず目覚めた時、信じられないくらいのエネルギーを感じて全く起き上がることができませんでした。

これまで私は長年瞑想を実践する中で、幾度か至福体験をしたり、覚醒体験(?)と今になって思うようなことがありました。その時はすごく強烈な体験だと感じていました。
けれどこの時は、それとはまるで比較にならない、これまで全く体験したことのない強力な「至福感」に飲み込まれて、身動きが全くできなかったのです。

よく「不幸が襲ってくる」という言葉がありますが、その真逆で「幸せが襲ってくる」という感覚です。あまりに幸福すぎて、全く動くことができない・・・そんな考えられない衝撃が私に起こったのです。

私は、ただただじっとして、その至福感を感じることしかできませんでした。意識はしっかりと目覚めていて、体の感覚もちゃんとあります。

どこからやってくるのか分からない、その至福のエネルギーは本当にものすごくて、結局私はその日から一週間ほど殆ど動けず寝たきりで過ごしたのです。家のことも殆どせず、食べることもせず、仕事もその間行くこともできず、お休みしました。

その時に私ははっきりと、この外側の世界と私の幸福とは1ミリも関係ないことが分かったのです。

食べることも、人と接することも、お金を稼ぐことも、遊ぶことも、一切何も私の興味をそそることは無く、そのすべても捨てて、ただこの至福の中にいたい、と感じました。

そしてこれまで私が大切に持っていた、未来への願望や夢さえもその時にすべて消えて無くなってしまったのです。

そんなものが全く必要がないというか、本当に今こうして存在していることそのものがただ幸福だし、何かをしたりすることはむしろその幸福を妨げることでしかないんだな、と感じたのでした。

もちろん、その最初の衝撃は時間の経過とともに薄れていき、2週間もすると元通りの日常に戻ったのですが、それでももう以前の私とは何かが変わってしまっていました。

そしてこれまでどんなに魅力的に感じていたものも、もう全く必要ではない、絶対的な幸福を感じることが始まったのです。


 

この「恩寵」をあなたに
 

 

そしていま、私自身が考えられなかったような変化をして、 まるで奇跡のように真の幸福に出会い、こうしてみなさまにHARUさんの教えをお届けできることが本当に嬉しくてワクワクしています。

きっとこれまで、たくさん悩んだり苦しみながらも一生懸命に生きてこられたあなたが出会うべくしてこの教えに出会い、これからきっとあらゆる苦しみから解放されていき、「ほんとうのあなたの姿」に戻っていかれると思うからです。

私にはそれが何より嬉しくて仕方ありません。

あなたが幸せになれば、あなたの周りの人たちもきっと幸せになり、その幸福はどんどん広がっていくと思うからです。

 

最後に、HARUさんのエッセイの一部をご紹介したいと思いますので、どうぞご覧ください。

 

 

HARUさんのエッセイから

 

人は皆だれもが幸福でありたいと願っています。

しかし、

「私は何が起きても絶対に変わることのない幸福の中にいます」

と言い切れる人が世の中に何人いるでしょうか。

そもそも、そのようなことがあるのでしょうか?

僕自身もずっとそれを知らないでいました。

 

僕はこれといった才能もない凡人ですが、あるとき運良くお金をたくさん持つことができました。その結果、いま思えばただ恥ずかしいだけですが、俗物がお金を持つとどうなるかという典型的な例を歩みました。不相応な豪邸を建てたり、あるときは何年もゴルフだけをして過ごしていました。

では、それで幸せになったかというと、結局そこにはなにもありませんでした。

こういうことに早く気づく賢い人もいれば、僕のようにそれに気づかないで人生の大半を棒に振ったような阿呆もいます。

やがて僕はあるとき、

「どうしたら人は幸福になるのか」

という教えに出会いました。

それはあまりにも衝撃的で、僕の人生を根底から変えてしまいました。

そしてやがてその教えは自分の中に少しずつ染み込んでいったのです。

その結果、いまはスーツケースひとつに収まる程度のものしか持たず、ワンルームに住んでいるけれど、昔の生活に戻ろうとは1ミリも思いません。

 

おそらくあなたもいま何かの苦しみや不安を持っているでしょう。

そこまで明確でなくても、あなたは心の奥底で、自分に何かが欠けていることを知っています。

または言葉にならない微かな不安のある状態で過ごしているかもしれません。

なぜなら、すべての人は何かしらそのような状態にあるからです。

それはいくら成功しようと、お金を持とうと、健康でいようと、幸福な家庭を持っていようと同じことです。

そのようなものは、少しはあなたを楽しませてくれるかもしれませんが、なにひとつあなたを真の幸福にすることはありません。

 

そのことに気づくきっかけとなったのは、あるインドの聖者の言葉でした。

 

監獄の中

 

ある日、暇つぶしにネットサーフィンをしているとき偶然に、あるインドの聖者の映像が現れました。

その人はとても美しい顔立ちで、思わず見惚れていると、その人はこう話し始めたのでした。

「あなたたちは監獄の中にいます」

この一言を聞いた瞬間、僕は心がドクンと震えるような衝撃を受けました。

そして、その聖者はこう話を続けたのです。

 

「あなたたちは監獄の中にいます。

あなたは、本当はそのことを知っています。

でもあなたはそこが監獄には見えないよう、きれいなカーペットを敷き、美しい壁紙を貼り、居心地のいいソファを置いています。

さらに、退屈しないようにテレビを置きます。

気持ちよく過ごせるよう、エアコンをつけます。

観葉植物や絵画で部屋を飾ります。

あなたは一生懸命、この部屋を快適にしようとします。

そして人生の大半をお金を得るために費やし、そのお金を使ってあれやこれやと気を紛らわせます。

あなたの人生とはそのようなものです。

それはそれで問題はありません。

続けたければ、どうぞ続けなさい。

 

でも、あなたは監獄の中にいます」

 

僕はこの人が何を言っているのか、ハッキリとわかりました。

そしてその時から、その「監獄」の外に出ることだけが僕の望みとなったのです。

僕はすぐに、この師の元で学ぶためにインドに向かいました。

 

インドへ

 

インドに着くと、そこは混沌とした別世界でした。

車道は一応二車線のラインが引かれていますが、誰もそんなものは気にしていません。三台も四台もぐちゃぐちゃになって走っています。

舗装道路が途切れると、泥道になり、人と一緒に牛が歩いています。

裸の子供が遊んでいます。

香辛料の匂いが漂ってきます。

そんな混沌とした世界なのに、妙に落ち着くような、懐かしいような、なんともいえない心地よさがありました。

そんな風景を眺めながら、その聖者の元に着きました。

 

そこでは多くのことを学びました。

そしていくつかの奇跡体験はあったのですが、僕が望んでいたのはそのようなことではありませんでした。

ただ「監獄から出る」ことだけを望んでいたのです。

しかし、そのことは起こりませんでした。

心の状態はここにきたときのままです。

やがてもう数日で帰国するという日になっても、それは起こりません。

焦りと失望でなんとも言えない惨めな気分になりました。

もうヤケクソになった僕は、

「おい、神さまとやら!

オレはこんなところまで来て、何ヶ月もここにいるのに、あんたは何一つ起こせないないじゃないか!

あんたはほんとにいるのか?

あんたが本当にいるんなら、いるという証拠を見せてみろ!

どうせできないんだろう、バカヤロー!」

と心の中で毒づきました。

そして、もうどうでもいいや、結局何も起きないんだ、と完全に諦めたのでした。

 

これは後になって師から言われたことです。

「神さまというのは、あなたたちが思っているような仰ぎ見るものではないのです。

神さまは、あなたが隠している虚栄心、嫉妬、嘘、執着、貪欲さ、自己重要性、ズルさ、そういうことはすべて分かっています。

神さまが求めているのは、そんなことへの贖罪や反省ではありません。

神さまが待っているのは、ただ、あなたが友達のように語りかけることだけなのです。

そして、あなたが自分では何もできないのだと完全に諦め、ほんとうに自分を明け渡したときにはじめて、神さまの恩寵が流れ込むのです」

 

その翌日の講義を終えて、庭に出たときでした。

突然、これまで体験したことのない不思議な感覚に包まれて、それに呑み込まれたのです。

それはいきなり違った次元に連れていかれたようで、しばらく何が起きたのかわかりませんでした。

やがて少し落ち着いてくると、とても穏やかな歓びがあって、世界を遠くから眺めているような感覚です。

そして目の前にある樹々も、建物も、人も、自転車も、花も、犬も、空も、道も、ゴミ箱も、すべてが、たったひとつの意識の現れだと、はっきりと感じたのでした。

その意識というのはまさに神さまそのもので、すべてが神さまで、神さま以外のものは何ひとつないのです。

ただ「神さま」だけが形を変えて存在しています。

世界がそのようなものだということは大きな衝撃でした。

 

しかしまだ何か奇妙な、説明できない不思議な感じが残っていました。

しばらくその「神さまが形を変えて現れている世界」をぼんやりと見ていると、やがてその理由に気がついたのです。

それは、それらを見ているものもまた「神さま」だということでした。

神さまはそのようにあらゆるものに形を変えて世界として現れていながら、その現れを、僕という身体を通して自分自身で見ているのです。

つまり、この世界には「神さま」だけしかないという、おかしなことなのでした。

 

このことがひとつの契機となって、さまざまな理解が始まりました。

そしてその後数年間、日本とインドを行き来しながら師の元で学び、さらに何人かのインドの聖者から多くのことを学びました。

彼らは身体としてはすでに存在していませんが、その教えは時を超えて僕を変えていったのです。

 

投網

わたしたちが赤ちゃんのときには、

「お母さんがもうお乳をくれなかったらどうしよう」

とか

「コロナにかかったらどうしよう?」

というような不安や心配はありませんでした。

ところがわたしたちの成長とともに脳も発達し、それにつれて「マインド」と呼ばれるものが徐々に大きくなってきました。

 

マインドとは、わたしたちの内側に湧き起こるさまざまな考えや思考のことです。

このマインドは人間が生きていくために必要なものです。

マインドがなければ、自立して生きていくこともできませんし、いまのような文明や文化をつくることもできません。

ですからマインドそのものには何も問題はありません。

それは単なる道具です。

たとえば、漁師にとっての投網のようなもので、投網を使うことによって楽にたくさんの魚を獲ることができます。

 

ところがいつの間にかその投網のほうが大きくなって、逆に人間がそれにからめ捕られた状態になってしまいました。

やがてわたしたちはこのマインドの中に包み込まれ、常にマインドというベールを通して世界を見るようになります。

そしてありのままの世界はベールに覆い隠され、その代わりにマインドという本来は道具に過ぎなかったものの創り出す世界が、わたしたちの世界そのものになっていきます。

 

そして、そのマインドを通して見る世界の中で、怖れがはじまり、不安がはじまり、心配がはじまり、ありとあらゆる苦しみが始まるのです。

 

ラベル貼り

 

あなたは電車に乗り遅れそうになって、大急ぎで駅へ走っています。

必死で階段を駆け上がったけれど、目の前で電車のドアが閉まってしまいました。

「あーも〜、どうしよう!」

次の電車は三十分後なので、あれほど楽しみにしていたコンサートの開幕にはもう間に合いません。

あなたはすっかり落胆してしまいます。

しかたなくプラットフォームでぼんやりしていると、しばらくして、先ほど出て行った電車が脱線事故を起こしたという案内が入ります。

あなたは思わず安堵に浸ります。

「ああ〜、乗らなくてよかった〜」

 

しかしここで起きているのは何でしょうか。

それは電車が出て、プラットフォームにあなたがいる、ただそれだけのことです。

 

このようにマインドはあらゆることに意味を持たせ、ラベルを貼ります。

実のところ、あなたがお金持ちになろうが、職を失おうが、コップの水がこぼれようが、結婚しようが、道で転ぼうが、病気になろうが、ピザを食べようが、雨が降ろうが、死のうが、財布を落とそうが、それはそれ以上の意味はありません。

それらに意味を付け加えているのはマインドです。

マインドはものごとにラベルを貼り、意味を与え、物語を作ります。

やがてわたしたちはその物語の中で生きるようになります。

 

さらにマインドはより確実に生き残るために、人生そのものに意味や目的を与えようとします。

家族のため、子供のため、人のため、会社のため、社会のため、というようなことからはじまって、国家のため、地球のため、神のため、というような壮大な目的まで考え出します。

しかしそれがいかに意味ありげに見えても、すべての意味付けは単なる「マインドのおしゃべり」なのです。
 

漁師



スペインのある小さな村に漁師がいました。

彼は好きな時間に起きて、漁に出ます。

戻ってきたら子どもと遊んで、女房とシエスタをします。

そして夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって一日が終わるという生活でした。

ある日、バカンスに来ていた金持ちの男がその漁師のそばにやってきて言いました。

 

(男)やあ、すばらしい魚だね。毎日どれくらいの時間、漁をしているの?

(漁師)ほんの一時間くらいさ。オレとオレの家族が食べるにはこれで十分だから。

(男)へぇ。でも君は魚釣りが得意なようだね。せっかくならもっと働いてみたらどうだい?

僕はハーバード大学でMBAを取得して、そして自分で会社を大きくしてきたから、きみにいろいろとアドバイスできると思うよ。

いいかい、きみは毎日もっと長い時間、漁をするべきだ。部下を雇ってもっと売り上げがでたら最新設備のボートも買ったほうがいいね。

(漁師)ほー、それで?

(男)そうしたら仲介人に魚を売るのはやめて自前の水産品加工工場を建てて、ビジネスを大きくするんだ。

やがてはこの村を出て都会へと進出していくといい。そしてきみはオフィスビルから企業の指揮をとるんだ。そうすれば老後もお金ができるよ。

(漁師)なるほど、そうなるまでにどれくらいかかるんだい?

(男)二十五年、いや、頑張れば二十年でそこまでいくね。

(漁師)へぇ、それからどうなるの?

(男)そしたら引退して、海岸近くの小さな村に住むんだ。日が高くなるまでゆっくり寝て、日中は釣りをしたり、子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごす。そして夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって過ごすんだ。

どうだい、すばらしいだろう!
 

脳外科医

ある高名な脳外科医がいました。

彼は神さまと強い絆で結ばれていました。

そして困難な手術があると神さまに心の中で助けを求め、神さまはいつもそれに応えて手術の方法を示してくれるのでした。

このようにして、彼は非常に優秀な医師として尊敬されていました。

 

あるとき、彼の執刀を見学するために世界中から医師が集まりました。

ちょうどひとりの男性が事故にあって病院に運び込まれました。

執刀に当たった彼が頭蓋骨を開いてみると、脳は酷い損傷を受けていました。

手術は困難を極め、彼は神さまに、これまでそうしてきたように助けを求めました。

「どうかこの人の奥さんを悲しませないように、彼を助けてあげてください!」

 

ところが答えがありません。

彼はもう一度頼みます。

「この人には子供が四人もいるのです。もしこの人が亡くなったら、奥さんも子供も路頭に迷ってしまいます。子供たちにはこの人が必要なのです!」

 

でも神さまの声はありません。

時間だけが過ぎていき、このままだと患者は間もなく死んでしまいます。

 

そのとき彼は、自分の心の中の真実に気がつきます。

そして彼は正直に神さまに話しました。

「わたしは、奥さんや子供のことなどよりも、手術が成功して自分の名声を守ることが大切なのです。だから助けてくたさい!」

そのとき突然、神さまの声が聞こえ、教えがやってきました。

そして手術は成功しました。

 

わたしたちは自分の醜さを知っていますが、決してそれを見たくありません。

だからわたしたちがつく嘘のほとんどは、実は自分自身に対してなのです。

でも神さまは、わたしたちの正直さを愛しているのです。

 

遊園地

 

ヨウコちゃんはお母さんに連れられて、はじめて遊園地に来ました。

そこには、いままで見たこともない色とりどりの建物やお菓子や風船があります。

メリーゴーランドや、大きな観覧車やたくさんの乗り物、そしてワクワクする音楽も流れています。

 

ところが、あまりの楽しさに駆け回っているうちにヨウコちゃんは、ついお母さんの手を放してしまいました。

お母さんがいないことに気がついたヨウコちゃんは、突然怖くなりました。

もう乗り物もお菓子も風船も、ヨウコちゃんの目には入りません。

お母さんを探して、泣いて走り回っています。

 

このヨウコちゃんは、わたしたちです。

わたしたちの周りには楽しそうなことがたくさんあふれています。

でも、わたしたちの心の底には言いようのない悲しみがあります。

そして心の奥では、ずっと小さな子供のように泣き叫んでいます。

わたしたちは一体いつまでこの人生という遊園地で走り回るのでしょう。

 

あなたの手をずっとつないでくれる人はいますか?
あなたの手を決して離さない人はいますか?

たったひとりでいいから、あなたのためだけに生きてくれる人はいますか?

もしいるとしたら、いったいそれは誰なのでしょうか。

 

それは、あなたの神さまです。

神さまだけがずっとあなただけを見続けています。

神さまが待っているのは、ただあなたが呼ぶことだけです。

そしてヨウコちゃんはお母さんに再び会えたら、きっとこう言うでしょう。

 

「早くおうちに帰ろう」

 

足あと

わたしたちの人生を返ると、偶然の出来事がたくさん見つかります。

ちょっとした偶然の一致もあれば、中には「奇跡」と呼べるものもいくつかあるかもしれません。 

そのようなとき、わたしたちは自分の理解を遥かに超えたものの存在を感じます。

その存在に気づきはじめると、わたしたちは自分の力で生きているのではないことを知るようになります。

 

ある人が、神さまと砂浜を歩いていました。

その人は神さまに尋ねます。 

「あなたは、わたしが生まれてからずっと一緒にいてくれたのですよね」

神さまはにっこりと微笑んで、その人にこう言います。

「そうだよ。振り返ってごらん」

砂浜を振り返ると、ふたりの足あとがずっと続いています。 

「ほんとうだ。あなたはいつも一緒にいてくれたんだ」 

 

ところが、ところどころひとりの足あとしかないところがあります。

それはちょうどその人の人生の中で、とても苦しくて辛い時間でした。

その人は尋ねます。

「でも、わたしがとても苦しいときや辛いとき、どうしてあなたは一緒にいてくれなかったのですか?」

 

神さまは答えます。

「あれはあなたの足あとではなく、私の足あとだよ。

あなたが苦しさや悲しさで自分ひとりでは歩けないとき、私があなたをおぶって歩いていたんだよ」

 

いのちのダンス

わたしたちは何ひとつ持たずにこの世に生まれてきて、何ひとつ持たずにこの世を去っていきます。

それでも世界はわたしたちにたくさんの美しい姿を見せ、そのひとときを祝福してくれるようです。

 

鳥たちは今日もまた空を舞い、歌います。

樹々は今日もまた風にそよぎ、花を咲かせます。

彼らは何かになろうともせず、何かのイメージを装うこともなく、神さまに身をゆだねてダンスをしながら、

そのあふれる恩寵の中で

見事に生き、

見事に死んでいきます。

 

あなたは、あなたの歌を歌うために生まれてきたのです。

あなたは、あなたのダンスを踊るために生まれてきたのです。

あなたが踊れば、神さまが踊ります。

世界が踊ります。

すべてのいのちがあなたと手をとってダンスをはじめます。

そのときあなたは、

花になり、

香りになり、

風になります。

 

そしていのちはひとつになり、

永遠のダンスの中で、

あなたは、

あなたを思い出すでしょう。