仁絵の持つ、『天凰の女王様(クイーン)』の二つ名の重みは、
その地域の不良たちにとってかなり重い。
仁絵が風丘のいる中学に転校して、不良の一線から退いても、
それは変わっていない。
未だにその二つ名は健在であるし、
その二つ名を持つ仁絵に喧嘩で勝とうとする不良は、
同年代の中学生からだいぶ年上の高校生まで、
数え切れないほどに存在する。
そして仁絵は、明らかな不良の振る舞いをすることは少なくなってきていても、
その目立つ見た目を変えようとしないため、
望んでいない不良の来襲を受けることもしばしばである。
そして、今回はその相手の不良のタチが悪すぎた。
「よぉ、女王様。お久しぶり。」
「覚えてねぇな。誰だ、お前ら。」
話しかけられたのは、高校生ぐらいの不良、5人のグループ。
気配を察した仁絵は、
仕方なく、騒ぎにしないように人気のない路地裏に入る。
こういう状況になったら、人気のないところで相手を失神させて逃げる、
これが、ここ最近の仁絵がとっている対処法だった。
「あぁ? 前にてめーにボコボコにされた・・・」
「悪いけど。ボコした雑魚なんて多すぎて、
いちいちその面覚えてねぇんだよ。」
「んだとぉっ!?」
「やめとけよ、翔太。
いくら偉そうにしてたって、もうその女王様は堕ちてんだから。」
「慎二・・・」
仁絵にバカにされていきり立った不良たち5人の背後から、
もう1人やって来た。
先の5人とは纏う空気が若干違う。
タイプが違う不良のようだと仁絵は感じた。
しかし、それよりも聞き捨てならないのは。
「俺が堕ちただって?
ずいぶんとご大層なこと言ってくれんじゃん。何を根拠に・・・」
仁絵の『女王様』と称される所以になったほどの
高いプライドが刺激される。
が、しかし、後にその不良から放たれた言葉は、
仁絵にとって予想外だった。
「お前・・・家出して担任の先公と住んでんだって?
で、親はその先公に養育費渡してる。」
「っ・・・だから・・・なんだよ・・・」
気取られないように慌てて制したものの、顔が引きつりそうになる。
(チッ・・・こいつ・・・情報屋タイプか・・・)
不良の中には、
ゆすりやらたかりやら低俗な脅迫行為を好む奴らもいて、
そういうのに使うネタ集めが得意な奴らもいる。
後から加わった奴はどうやらそのタイプのようだ。
「突然女王様のお元気が無くなったようだから、
調べてみたら、そーいうこと。
ずいぶん懐いてるみたいじゃん?
お前、その先公に引き取られてからぱったり喧嘩も止めたみたいだし?」
「っせーな、だからっ・・・」
「がっかりだよな。
俺らは君臨してるお前を頂点から
いつか引きずり下ろしてやるの楽しみにしてたのに・・・
よりにもよって先公の金づるに堕ちるなんてよ。」
「金づるだと・・・? 意味わかんねぇな・・・何でだよ・・・」
理解できない、と仁絵がそう言ってやろうとしたのを遮って、
不良は続ける。
「お前もバカじゃねーの?
お前の担任、20半ばのいい男真っ盛りだろ?
そんな独身男が、
自分の子どもにしちゃでかすぎる、
しかも札付きの不良男子中学生を引き取って
何のメリットがあるよ?
フツーに考えてねーだろ。あるとしたら・・・」
その慎二と呼ばれた不良が、
硬直している仁絵の耳元で意地悪く言う。
「金っきゃねーじゃん?」
「っ!」
はじかれたように、仁絵は動いた。
不良たちが悲鳴を上げる隙も無く、急所を攻めて、失神させていく。
数秒後には、仁絵の足下に6人の不良が気を失って倒れていた。
しかし、仁絵はそれどころじゃなかった。
耳にこびりついて離れないのは、不良から言われたあの言葉。
『金っきゃねーじゃん?』
「んな・・・そんなわけない・・・けど・・・」
あの不良の言うことは、ある意味的を射ていた。
仁絵にも否定しきれなかった。
自分なんか引き取って、風丘に何のメリットもないことは、
仁絵自身がよく分かっていて、
それでも、無意識に見ないふりをしてきた事実。
仁絵は、半ば放心状態で家に帰った。
まだ、風丘は帰っていない。
今日は、少し残業するかもしれないと言っていた・・・と思い出しつつ、
仁絵の足は、風丘のプライベートルームに向いていた。
別に入るなと言われているわけではないが、
普段用事も特にないので、ほとんど入らない部屋。
無駄に広いこの家には、風丘が使う仕事部屋は別にあって、
このプライベートルームには
完全に仕事と無関係な風丘の私物しか置いていない。
整然と物が整理されているこの部屋に入ると、
仁絵は、おもむろに壁際の引き出しに手を伸ばしていた。
あの言葉は、不良が狙ったそれ以上に仁絵の心を深くえぐっていた。
仁絵が、冷静な思考回路を失うくらいに。
普通に考えれば、風丘がそんな人間なわけがない、
あの不良なんて、風丘と天秤にかける価値すらないと
分かるはずなのだが、
仁絵の頭の中では、
「自分を引き取るメリットはない、むしろデメリットの方が・・・」という考えが
とにかく先行してしまっていた。
「あっ・・・た・・・」
引き出しを開けて見つけたのは、風丘名義の通帳。
きまって毎月1日、
この口座に父親名義で仁絵の養育費が振り込まれる。
その額は、10万円。
それは、仁絵も同席していたあの夜その場で取り決められた。
一般の相場からしたら高い方らしく、
風丘がそんなにいらないとか言っていたのを覚えている。
その時に、「俺の部屋の引き出しに閉まっておくね」なんて
言われたのを覚えていたから見つけられた。
(開け・・・る・・・か・・・? チッ・・・何ビビってんだよっ・・・)
意を決して開いた通帳。そこには・・・
「・・・・・・・・・ハッ・・・まぁ、そうだよな・・・」
父親名義で振り込まれている、
そこに並んだ数字は10万ではなく、30万。
しかも、それは毎月ご丁寧にその振り込みの翌日か翌々日に
同じく風丘名義の別口座に送金されている。
「やっぱ俺は金づるかよ・・・ハハッ・・・」
通帳を引き出しに放り込み、仁絵は力なく笑う。
そして、次の瞬間には、目つきが鋭くなり、
纏うオーラも変わった。
そう、まるで、転校初日のあの時のように。
「いーじゃん、どうせなら・・・
もっと最高の、都合の良い金づるになってやるよ。」
誰に言うわけでもなく仁絵はそう呟いて、
携帯と財布だけ持つと、家を出て、夜の闇に消えていった。
その夜、仁絵は帰らなかった。
いや、その夜、というより、仁絵にはもう帰るつもりが無かった。
夜中の12時頃、風丘から留守電が入る。
“仁絵君? どこにいるの。無断外泊は禁止だけど。
これ聞いたらすぐ連絡してね。”
門限は無い仁絵だったが、無断外泊は禁止だった。
無断外泊というのは、
風丘的に日付が変わったら適用されるようで、
そんなわけで事前に連絡しない限り、
仁絵の門限は実質的に12時だった。
もちろん、それを破れば・・・。
しかし、もうあの家に帰らないと決めた仁絵にとって、
そんな約束守る意味は無かった。
仁絵はその留守電を再生はしたものの、
黙って聞いて、そのまま消去する。
しかし、風丘がこの1回のシカトで諦めるはずもなかった。
その後も、最初は15分間隔、
そこから次第に10分間隔、5分間隔で携帯は鳴り続け、
結局明け方の5時くらいまでそれが続いた。
その着信の3回に1回は留守電になった。
最初は怒っているような声だったが、
2時過ぎには、その声色は心配色が強くなっていた。
その声を聞くと、なぜだか胸が痛くなる。
イライラした仁絵は、もうそこからは留守電も再生しないで削除した。
風丘の方は、なぜ突然仁絵がこんなことをしたのか分からず、
焦っていた。
別に喧嘩をしたわけでもなければ、
今日の学校でおかしな様子もなかった。
「なんで・・・? こんな・・・」
風丘は不安なまま一夜を明かし、翌朝になっても仁絵は帰ってこない。
しかし出勤しないわけにはいかず、
探しに行きたい気持ちを抑えて、風丘は学校に向かった。
だが、仁絵との再会は、予想していない形で実現した。
風丘が一時間目の授業に向かおうと廊下を歩いていた時、
仁絵と鉢合わせしたのだ。
しかし、仁絵のその顔は、
昨日風丘が最後に見た顔とは全く違っていた。
「仁絵君!? 昨日はどこに・・・って・・・
仁絵君・・・君・・・なんて顔して・・・」
仁絵はニヤッと猟奇的な笑顔を風丘に向けた。
「今までウザかったろ?
問題児の俺の面倒見るのなんて。
いくら俺が・・・『金づる』だったとしても。」
「仁絵君・・・何言って・・・」
「あんた、俺をっ・・・俺を金で買ったんだろ? 俺をっ・・・月20万でさ。」
「なっ・・・」
仁絵から、苦しそうに吐き出された言葉。
あまりの言葉に、風丘が目を見開く。
何か言おうと風丘が口を開く前に、仁絵が言う。
「喜べよ。あんたの為に
俺、もっと最高の金づるになってやるからさ。
もうあんたの家には帰らない。
でも親父たちにはバレないようにするから、
金はそのまま入ってくる。
最高じゃん? ガキの面倒見なくていーし。
学校にも多分もう来ない。不登校扱いにでもしといて。
それじゃ・・・バイバイ。」
「!! 待ちなさい、仁絵君、君、何か勘ち・・・くっ・・・」
咄嗟に仁絵の腕を掴んだ風丘だったが、
その瞬間、仁絵に鳩尾に拳を打ち込まれ、意識が朦朧とする。
普段ならくずおれる程度だが、
昨日、神経をすり減らして一睡もしていなかったのがここに来て影響したらしい。
仁絵は、そのまま踵を返すと、走り去った。
その顔は一瞬苦しそうにゆがんだが、
走り出したときには、それは消え、
殺気を帯びた鋭い凍てつくような目つきに変わっていた。