以前、禅の思想に傾倒したことがあり、そこで学んだ言葉が「今、ここ、自分」です。禅で大切にすべきなのは、この「今、ここ、自分」なのだと言うのです。ただ、ここで問題なのは、

「今」とは何時か?
「ここ」とはどこか?
「自分」とは誰か?

という問題です。スピリチュアル系のお話や最新物理学の内容を土台において、この3つの問題を考えて見たいと思います。

「今」とは何時か?
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「この世」には「永遠」という名の「今」しか存在しないと言っています。現在の物理学では、線形連続の時間が前提となっていますが、アインシュタインが「時空」という言葉を用いたように、この世は「時空」が一体となったものだと思います。そのように考えた場合、「時間」のみを切り取って考えることは、不完全だと思います。

「ここ」とはどこか?
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先ほど述べたように、「ここ」が「時空連続体」として存在しているのであれば、「ここ」である「場所」を時間から切り分けて考えるのも不完全です。

すなわち、「今&ここ」の捉え方とは、「永遠&限りない空間」として「今&ここ」を捉える必要があるのだと思うのです。

そして「自分」とは誰か?という問題が最後に残ります。
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果たして「自分」とは誰でしょうか?簡単な例を挙げます。イエスは「己のごとく汝の隣人を愛せよ」と言いました。これが実現されたとき、「己」と「隣人」は「愛の対象」としては、完全に「不可分」になると思います。すなわち「己」は「隣人」であり、「隣人」は隣人でありながら「己」になると思います。

よって「今ここ自分」と高度な次元から捉えた場合、「永遠&宇宙の全て&存在の全て」となるのだと思います。

この観点で生きることが、「悟り」なのだと思います。ただ、悟った段階でやるべきことがあります。仏教の教えは「煩悩からの解放」がその目的ですが、「煩悩から解放された状況でなすべきこと」があると思います。

その一つが「己のごとく汝の隣人を愛せよ」ということであり、もう一つが「創造主の特性であるところの『無限の創造性』を自ら発揮すること」なのだと思います。

創造主の分身として創造された私たちが、自ら何かを創造することにより、宇宙が「創造&拡張」されていくのだと思います。限りがないのが「創造主の創造性」であり「神の愛」なのだと思います。

私たちも創造主と神と共に「創造性」と「愛」を共同作成する「共同作業者」として「創造」されたのだと思います。よって「愛」をもって「創造」することが、私たちがなすべき唯一のことだと思います。