私は、イエスの教えを信じていますので、考え方によってはクリスチャンです。クリスチャンにとって聖書は神聖なもののはずです。バッハはその福音書を基に、受難曲を2曲残しています(現存するもの)。その中の一曲である「マタイ受難曲」は「ロ短調ミサ曲」と共に、バッハの最高傑作と言われています。わたしとしては、「マタイ受難曲」の方が上だと思いますが。

その、マタイ受難曲の中に「憐れんでください。神よ」というアリアがあります。とても綺麗な曲で、涙なくしては聴けない曲です。しかし、わたしは、普通のクリスチャンではないため、曲の美しさはさておき、歌詞に若干の違和感を感じています。

「憐れんでください。神よ」

この言葉は、他力本願過ぎる気がします。「憐れんでもらえなければ、やっていけないほど、あんたは弱いのかい?!」と言いたくなってしまいます。

イエスは、毒杯を呑みました。「ただ神の御心のままに」という意志で。そこに「憐れんでください」というような「みみっちい」考えはなかったと思います。

「憐れんでください」と述べる時、主体は「自分」になっていると思います。結局は「自己中」です。もちろん究極的には「自己中」でなくてはいけないのですが、真の創造という観点でのみ「自己中」であるべきです。「憐れんでください」という時の心情は「被害者意識丸出し」です。それでは、「成長はない」と思います。

先日、被災者のお兄さんの記事を取り上げましたが、お兄さんは今のままでは成長できないでしょう。

次に、「蔑んでください」について述べてみたいと思います。

自分の価値観で生きていると、人から蔑まれることも出てきます。例えば「仕事より家庭」と考え、残業で頑張って仕事上の成果を上げるより、一家団らんの夕食を目指して早く帰宅する人の場合、「会社で蔑まれる存在」になっていく可能性は高くなるでしょう。

そんなとき、多くの人は「ジレンマ」に陥ります。多くの人は、「世間の目」の方を優先して、「自己の価値観」の方を取り下げます。そんな生き方は、「意味ないじゃん!」と思います。まずは、自分の価値観で自分が満足することが大切だと思います。

「蔑みたければどうぞ!それであなたの自尊心が満たされるのであればね。また、頑張って会社で出世してくださいね。わたしは、他の方法で自分と社会に貢献していきたいと思っていますので。まずは、自分と自分の家族に対する責任を果たしたいと思います。それを果たしつつ、他の人とも手を取り合っていければと思います。いずれあなたとも同じ目的に向けて手を結べる日が来ることを、あなたとこの宇宙の為に願っています。しかし、目的が最後まで一致しなかったときは、ごめんなさい。これでお別れです。じゃあねっ!」

こんな考え方で、自分の価値観を優先させてはいかがかと思います。わたしは、そんな風に生きたいです。蔑むのは、所詮『人間』です。完全な存在から『蔑まれる』訳ではありません。「不完全な人間」が「不完全な価値観」で、私の価値観を「蔑んでいる」に過ぎないのです。そんなものを気にしていられるほど、時代の変化はゆっくりでは在りません。

また、完全な存在は他の存在を蔑むなどということはないはずです。なぜなら、すべてのものは創造主の無限の創造性から生み出されたものだからです。ですからすべての創造物は、あるがままで尊重されるべき存在だと思うのです。よって、「蔑む」とは「仮想現実」に過ぎません。私たちは「真の現実」を生み出す必要があります。これからが、その時代です。一緒に「変態(メタモルフォーゼ)」しましょう!