「人生は非情だ」「神も仏もない」という人の多くが、学びに対して『挫折』を感じているのでしょう。

今回の震災によって『挫折感』を感じている人もいるでしょうか、ここから『学ぶ』ことができるのも事実でしょう。何を学べるかはその人の「創造性」に係わると思います。

数日前のブログで引用したガンジーの言葉『明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい。』が今日本国民全てが噛みしめるべき言葉でしょう。

原発が不測の事態になった場合、文字どおり「明日死ぬ」ことになるかも知れません。しかし、その中でも「何かを学ぶこと」はできるはずです。

捨て鉢になり、暴動を起こすものや強姦に走るものも出てくるでしょう。しかし、冷静に「最期の時」を受け入れることもできると思います。死ぬことが分かったとしても礼節を重んじて死んで行きたいと思います。

「2012」という映画で、誤解している2012年が描かれていました。その中でチベットの高僧が「最期の時」を迎える姿が描かれていました。彼は、うろたえる弟子を諭し(しかし、逃げたいという彼の意志は尊重する)、鐘をつきながら大津波に対峙していました。

「助からないと分かったら、自分も同じような行動を取りたい」とその映画を見て思いました。

映画自体は「くだらない」ものでしたが、このシーンからは「学ぶこと」ができました。

「災害」についても同じ事が言えるような気がします。

肉体的に辛い状態に耐えることは、文字どおり「辛い」事ですが、そこで「怒り」を表現するか、「感謝」を表現するかは、その人の創造力に係わってくると思います。

今被災しているのは、東北地方だけです。しかし、一ヶ月後は、関東東海地方も「被災地」になっているかも知れません。お金持ちや権力のある人は、海外に逃げるでしょう。現時点でも、多くの人が逃げているという情報もあります。

「2012」の映画の中で、主人公は助かります。また、「政府関係者」や「富裕層」も助かります。しかし、助かった人より「チベットの高僧」の方が「価値ある人生」だと思います。

人生は「長さ」ではないと「延命治療を拒否した少女」が言っていました。「延命を懇願する」父に対し、「それを拒否」するのです。彼女の人生は「尊いもの」だったと思います。ぬくもりを彼女の周りに残してくれていったと思います。

延命を懇願した父も、彼女の死を「ぬくもり」を持って、後日は受け入れていた映像が流されました。彼女の死を受け入れなければならない父は辛かったと思います。病気を恨んだと思います。しかし、病気や境遇を恨んでも、状況は変わらないのです。

不遇な環境や人生は「受け入れたモン勝ち」だと思うのです。