昨日のブログで、「人間がどこから来て・どこに行くのか」については「諸説ある」と言いましたので、その辺のことを書いてみたいと思います。

一般的な解釈では、

「人間は男と女の生殖行動によって、卵子と精子が結合し、人間へと成長可能な受精卵となる。受精卵が細胞分裂を繰り返し、人間へと成長していく。成長の過程で、ダーウィンの進化論を子宮の中で再現していく。十月十日を経て、肺呼吸をする人間として誕生する。」

が一般的な考え方でしょう。

ダーウィンの進化論は「仮説」に過ぎません。「嘘」とは言いませんが、あくまでも諸説ある中での「仮説」に過ぎません。一般的に科学理論とは、すべて「仮説」であるということを認識しておくことが大切だと思います。

「ビックバンから宇宙が誕生した」というのも、「仮説」に過ぎません。

しかし、多数の科学者が賛同する仮説を「定説」と言うのも事実です。ですが、「定説」も「定説」に過ぎません。「真理」であるか否かは別問題です。

科学や哲学は真理を探究していく学問だと思います。しかし、科学や哲学が明らかにするのは「この次元におけるこの世」についてだと思います。「他の次元(他の宇宙)」や「形而上」の問題に関しては、雄弁に語れません。

ですが、科学を語る言葉は数学です。数学は、次元を超えて存在する「真理」だと思います。ピタゴラスの定理はどこにおいても成り立つと思います。もちろん、「平面上」という前提が必要ですが、「前提」を指定すれば、その中では「真理」になるのです。

物理学においては、「定数」と呼ばれるものが、この次元のこの宇宙の「形」を定義していると思います。昨日の黄金比や137などもこれらの「定数」から導かれるものだと思います。

哲学においては、「論理記号」で扱うものや、量子力学を活用する「科学哲学」なるものが存在します。しかし、これとて「この次元のこの世」に関する議論のような気がします。まあ、論理記号や量子力学を扱うものは数学にも含まれるため、この部分は「普遍的」と言えるかもしれませんが、哲学が明らかにしようとしているのは、あくまでも「形而下」の問題のような気がします。

「人間がどこから来て・どこに行くのか」は「他の次元、他の宇宙、あの世」までを含めて考える必要があるのではないでしょうか?

例えば100年程度のものを「人生」と呼ぶのではなく、「輪廻転生」を繰り返すものを「人生」と考えるなら、生き方は変わってくると思うのです。

また、アメリカ等では、聖書の創世記を信じているため、ダーウィンの進化論を信じているのは5割程度という話です。学校でも、ダーウィンの進化論だけなく「創世記も教えるように」という要請が親から上がったというニュースもありました。

ダーウィンの進化論を信じていない人の中に、宇宙人による人類創造を信じている人もいます。彼らは、「宇宙人の遺伝子」と地球固有の「類人猿の遺伝子」から生み出されたのが、現在の人類であり、人類は宇宙人との「バイブリッド」であると信じている人もいます。

考え方によれば、これも「仮説」です。「ばっかじゃない?」と否定するのも軽率だと思います。「可能性の一つとして考えて見る」位の気概はもっていたいなぁと思っています。

仮に、彼らの考え方を受け入れた場合、「霊」はどうなるの?とか「彼らはどうやって生まれたの?」とか「彼らの持つ形而上学は何?」「彼らの住む星での物理法則はどのようなもの?」とか色々と疑問がわきます。

そんなことを考えて見るのが私は好きです。それも「形而上学」の一つであり、「より善く生きる」ための「ツールになる」と思います。