カール・コールマン博士という方がいます。マヤ暦の研究者です。

マヤ暦はご存じの方も多いと思いますが、マヤ暦は「2012年12月21日」に終了します。これをもって「人類滅亡」とか「地球滅亡」とか思っている人もいらっしゃると思いますが、これはまず間違いなく「間違い」です。

また、マヤ暦の終わりが2012年12月21日というのも「間違い」だといっているのが、カール・コールマン博士です。彼の理論では、2011年3月9日から2011年10月28日までが、マヤ暦の最終段階である9段に入る時期だそうです。

彼は、リーマンショック以降の「ドルの危機」を2004年時点で予言していたそうです。

しかし、マヤ暦の終わりが「正確にはいつなのか」はあまり重要な問題ではないと思います。要は「その時、どのように生きるか」だと思うのです。

マヤ暦が正しいとするなら、この世の終わりは「余命僅か」であることは変わりありません。また、私たち自身の肉体も「余命僅か」であることは確かです。長い人でも「余命100年」でしょう。

自分の命を「肉の命」だけと考えるのか、それとも「霊or魂の命も存在する」と考えるかによって、生き方は大きく異なってくるでしょう。

私は、「霊や魂」が存在すると考えています。例えそれが間違っていたとしても「そのように考えた方が生きやすい」と思うからです。

「地獄の業火で焼かれることを怖れて悪行を行わない」という人もいるでしょうが、それでもそのように考えて「悪行を行わない」としても、「他の人」にとっては「都合の良い考え方」になります。全体としての「幸福」は増すことになります。

このような考え方が、マイケル・サンデル流の「功利主義」の考え方です。

「善行を行うというのは普遍化できる」とカント流に考え「善行」を行うとしても、結果は同じです。皆にとっての「幸福」は増します。

しかし、本当にカント流に考え「義務感のみ」で善行を行う場合、本人は「不幸」になります。なぜなら、「やりたくないことを嫌々やる」事になるからです。

「余命僅か」でなすべき事とは、「己のしたいこと」かつ「皆のためになること」だと思います。イエスの言葉を借りるのであれば、「己のごとく汝の隣人を愛せよ」ということになると思います。

そこまでたどり着けないとしても、「やりたいことをやる」べきです。しかし、「本当にやりたいことかどうか」を良く吟味する必要があります。

お金が欲しいからといって「銀行強盗」はやらないでしょう(例えば余命が「100年」あった場合においては)。明日死ぬのであれば「やる」という選択肢もあるでしょう。しかし、本当に「明日死ぬ」かは分かりません。

例え明日銃殺刑にかけられる事が決定していたとしても、「魂は永遠」に生きるかも知れません。そのように「実感」できないとしても、「可能性」はあります。

「可能性は0に等しい」と思えたとしても「強姦」を本当にしたいと思うでしょうか?それで本当に「快」を求められるでしょうか?

嫌がる相手を無理矢理押し倒し、鬼のような形相で抵抗する相手に対して、それでも欲情するのでしょうか?

もし、仮に欲情できると思えたとしても、やめてください。わたしからのお願いです^^;

2012年が嘘か真かはわかりませんが、「より善く生きる」ことは常に目指すべきでしょう。