今回はロックの2回目でした。
社会契約におけるロックの言葉は以下のとおりです。
「人は社会において所有権を持っており、物に対する権利は、コミュニティの法律により、彼らのものとなる。 ゆえに、最高権力ないし立法権によって、人々の財産を意のままに処分したり、ほしいままに取り上げたりすることができると考えるのは間違いである」
この言葉によって、自然権によって、個人の財産が守られることを擁護しています。また、ロックの言葉は次のように続きます。
「政府は大きな負担なしに支えられるものではない。政府の保護を享受する者は皆、その維持のための割り当てを自分の財産から払うべきである。しかしそこには、本人たちまたは彼らに選ばれた代表者によって与えられた本人の同意、すなわち多数派の同意がなければならない」
ここにおいて、同意に基づく政府の正当性が述べられます。
ここでの論理展開は以下のとおりです。
自然状態(自由で平等な人々がバラバラに暮らす状態)
→個人が自然法の執行者となる
→侵略と処罰の繰り返しは暴力による支配に至る
→大多数の人々の生命、自由、財産に対する不可譲の権利が侵害される
=自然権が脅かされる→人々の同意により社会を形成する必要
すならち、個人は、財産権を守るために政府に属さなければならないものです。そして、多数派が決め、恣意的によるものでないなら、財産を取り上げてもいいということです。ここで問題となるのは、「それでは同意はどのようになされれば、公正と言えるか」という問題です。
これについては、次回以降掘り下げていくようですので、ここでの言及は避けます。私が、ここで問題にしたいのは、「民主主義は絶対か」ということです。
はたして、そうでしょうか。
タイは王政で、タイ国王がまだ健康だったときは、保守派と革新派が争ったとしても、「国王が仲良くして!」とお願いすればおさまった国です。ダライラマについても同様のことが言えると思います。
すなわち、賢者や絶対の心服を得ている人が政治を行うことは、権利ばかりを主張する愚かな民主主義より好ましいかも知れないということです。
イエスと釈迦とマホメットが相談して作ってくれた社会なら、大多数の人が納得すると思います。それなので、私は、民主主義が絶対だとは思いません。民主主義は衆愚政治と紙一重です。自民党政権下で成されていたことが、まさに衆愚政治だと思います。その責任を取らせるため、当分の間、自民党を政権に付かせてはならないと思います。付いていい条件は、民主党との連立においてのみです。そこでは、脱官僚を実現しなくてはなりません。官僚こそが、悪の権化と言っても過言ではないでしょう。
同意による政府というのは賛成ですが、数の論理ではダメだと思います。そこに必要なのは優れた哲学と宗教と科学が必要なのだと思います。