平成12年、それまで国史跡に指定されていた紫香楽宮跡から北の宮町遺跡から南北100mを越える朝堂と見られる長大な建物跡が検出されました。その後の発掘調査で更にもう一つの朝堂、朝堂前殿、門塀、朝堂後殿、二棟の内裏と思われる建物跡が次々に見つかり、ほぼ間違いなくこの宮町遺跡こそが紫香楽宮の中心部であったことがわかってきました。続日本紀によると、742年(天平14年)8月11日に智努王、高岡連河内他4名を離宮を造る司に任命したとあり、当初は離宮として造営されたことから、発掘調査の遅れもあり、紫香楽宮に都が置かれていたこと自体に疑問を持つ者も多かったようです。8月27日に聖武天皇が初めて紫香楽に行幸し、翌年、天平15年10月15日にはこの地に盧舎那大仏造営の詔が出されました。その後、聖武天皇は恭仁宮に戻ったのち、天平16年正月に難波宮に行幸し、2月20日には恭仁宮から高御座を移し、26日に難波宮を皇都と定めています。しかし、その2日前の24日に紫香楽宮に行幸しています。天皇不在の中で難波宮に遷都されていることになります。その後、難波宮に還ることなく、天平17年1月1日紫香楽宮に都が移されました。聖武天皇のこの一連の行動は非常に不可解なもので、未だに謎が多く残されています。ここからは全く想像の世界になりますが、もし聖武天皇一人の意思ではなく、他の力や提言などがあったとして、その立場にいる人物を考えると、浮かんでくるのが光明皇后と元正太上天皇です。この二人が嫁姑問題?みたいな何らかの確執があったと仮定してみました。まず光明皇后ですが、続日本紀天平14年2月丙子朔条に天皇は皇后宮に行幸し、臣下たちと宴会した。とあり、行幸したということは皇后宮は恭仁宮外にあったのではないかと思われます。一方、元正太上天皇は新宮に迎えられたことから恭仁宮の内裏西地区(前回参照)に居住していたと見られます。何か微妙な空気を感じませんか?(笑)そして、紫香楽宮では天平15年の大仏造営の詔に関して、光明皇后の提言があったとは考えられないでしょうか?聖武天皇以上に仏教に帰依していたとも言われていて、大仏造営に大いに関係していたことも十分考えられます。光明皇后=紫香楽宮の都として、もう一方の元正太上天皇を見てみましょう。恭仁宮に居住したのち、天平16年2月26日には聖武天皇不在の中、元正太上天皇のもと難波宮遷都が行われています。仮に元正太上天皇=難波宮としてみます。その後、聖武天皇は難波宮に還ることなく、紫香楽宮で光明皇后とともに大仏造営に力を注いでいたのでしょうか、そのまま天平17年正月未朔に紫香楽宮を新京としています。元正太上天皇はその前年11月17日に甲賀宮(紫香楽宮)に行幸し、到着したとあり、難波宮に還った記録はないので、紫香楽宮に居たと思われます。天平17年四月、失火ではなく、不審火と思われる火災が相次ぎます。放火は反意を示す際に用いられる手段です。この反意を示した人物が元正太上天皇だったのではないかと考えます。勿論、他の官人の多くが紫香楽宮遷都には反対していました。万葉集に紫香楽宮について詠まれた歌が一切ないことからもわかります。元正太上天皇がリーダー的な存在だったのではないでしょうか。ただ、直後に一晩中地震があり、それが三昼夜続いたという。五月になっても余震が続き、5月6日に天皇は恭仁宮に還幸し、11日にはとうとう平城京に還ることになります。最終的には天災によって聖武天皇の三都制構想は夢に終わってしまいますが、二人の強い女性の間に挟まれ翻弄する聖武天皇の姿もちらついて、少し哀れだなと感じてしまいます。




元々史跡に指定されていた紫香楽宮跡にある礎石は、廃都後に建てられた近江国分寺のものだと思われます。7間×4間のそれなりの規模を持つ金堂ですが、東大寺の大仏殿と比較(下写真の紫色部が東大寺伽藍、黒色部が礎石が残る近江国分寺伽藍)すると、全く小規模なもので、大仏を安置できるような堂ではないことがわかります。続日本紀天平15年11月19日条に盧舎那仏を造るために始めて甲賀寺の寺地を開いたとあり、天平16年11月13日条では、甲賀寺に始めて盧舎那仏像の骨組の柱を建てたとあります。この後、すぐに廃都となり大仏造営は塑像まで出来上がった時点で中止されています。東大寺の造営では大仏を完成させた後に大仏殿を建立しているのを見ると、続日本紀などで記載されている甲賀寺というのは、大仏造営の途中だったのなら、まだ伽藍の造営は行われていなかったのではないでしょうか、もしこの地に甲賀寺を求めるとするなら、丘陵地を切り開かれているのは、せいぜい大仏殿が一つ入る程度の規模です。他の地に求めるにしても、周辺の平野部の遺跡からはそれらしいものは未だに見つかっていません。この地の北東約200mほどのところで、鍛冶屋敷遺跡と呼ばれる甲賀寺造営のために建てられたと思われる大規模な鍛冶工房跡が見つかっていて、東大寺に次ぐ規模を持つ大型梵鐘の内型などが検出されていることから、やはり甲賀寺はこの近くに造営される予定だったと思われます。よって、現在の金堂跡付近で大仏造営が行われて、造営のめどが立った後に伽藍整備を行う予定だったのではないかと考えます。東大寺の開眼供養には7年かかっていること、甲賀寺は寺地を切り開いてから1年あまりというのを比較すると妥当だと思います。また、何故この地が大仏造営の地に選ばれたかという疑問も残りますが、おそらく付近に木材が豊富にあったことが考えられます。平城京付近では既に資源が乏しくなっていたため、東大寺など平城京に還った後に建立された寺院の多くは湖東三山からこの地域あたりで伐採された木材が多く使われています。



~NEWS~

全く関係のない話しなのですが、藤ノ木古墳の北約150mの場所に春日古墳と言われる直径22m程度の円墳(裾が削られているため実際はもう一回り大きいものと思われる)があります。民家の敷地内にあり、これまで発掘調査が行われていなかったのですが、近年中に調査が行われることになりそうです。横穴式石室墳だと思われ、藤ノ木古墳との関連が注目されています。そして、どうやら未盗掘だそうです。規模から考えて皇族クラス墓ではないかもしれませんが、何が出てくるか楽しみですね。