新名神高速道路整備事業に伴って、平成二十三年より調査が開始された京田辺市松井の松井横穴群の調査発表があり、1月25日に現地説明会が行われました。松井横穴群は、南山城地域、木津川西岸に拡がる平野部の西南端にあたる丘陵地で、京田辺市と八幡市の境に位置します。今回の調査で古墳時代後期から飛鳥時代の頃と思われる70基の横穴が見つかりましたが、この丘陵地全体が横穴群と考えられていて、まだ発掘されていない部分を合わせると300基以上あると推定され、関西最大級の横穴群になるのではないかと言われています。松井横穴群のすぐ西側には女谷・荒坂横穴群、更に美濃山横穴群、狐谷横穴群が既に発掘されていて、100基近くの横穴が確認されています。この地域に集中して一大横穴群を形成していることがわかりますが、北側の平野部では、内里八丁遺跡、新田遺跡、木津川河床遺跡など古墳時代前期~後期の集落跡が見つかっていて、副葬品から鉄鏃や鉄刀といった武器が殆ど見られないことから、支配者階級ではなく、この周辺一帯の集落の一般階級上層部の人が合葬されていたと考えられています。


1-松井横穴群 2-女谷・荒坂横穴群 3-美濃山横穴群 4-狐谷横穴群

5-木津川河床遺跡 6-新田遺跡 7-魚田遺跡 8-門田遺跡

他にも多くの古墳群、遺跡がありますが、省略しています。この地域は古くから奈良の都と諸国を結ぶ街道、山陽道と山陰道がこの付近で分岐され、木津川と淀川、桂川と三つの河川が合流する地点があり、陸上、水上ともに交通の要所になっていました。また、松井横穴群の南東に大住という駅名が見れると思いますが、7世紀頃にこの地をはじめ近畿各地に南九州の大隅隼人が移住してきたと伝わっています。隼人(はやと、はやひと)は薩摩、大隅など南九州の氏族に与えられた役職みたいなもので、九州には5世紀後半から6世紀はじめの早い時代の横穴墓の遺構が見つかっていて、横穴墓の国内での起源は九州ではないかという説があります。このことから、近畿各地の横穴群はこの大隅隼人が伝えたとも考えられます。ただ、関西では柏原市の高井田横穴群などは、6世紀前半から造られ始められたと言われていて、この地域の横穴群も6世紀後半までには造られていると考えられているので、隼人が移住してきたと伝わる7世紀とは微妙な時代の差があります。しかし、この地域に限っては、ほぼ一致していると言っても過言ではないので、やはり有力な説であることは確かですね。




今回発掘された副葬品では、須恵器が多く出土していました。他には小量の金属器や耳環など装身具が見られました。高杯は土師器ですね。変わっているのは素焼きの小型の陶棺が見つかりました。他では奈良の宝来横穴墳で似た例があるだけで、全国的にも非常に珍しいものだそうです。上面には穴が開いていて、蓋が付いています。長さ80cmほどしかないため人は入れませんね。どのように使われていたかは明らかにされていません。何体かの遺骨をまとめて入れていたのか、子供用なのか、副葬品を入れていたのか、横穴の中には鉄釘が出土しているものあり、これは木棺が用いられていたと考えられていて、埋められた時期や集落の風習によって埋葬方法が違うということでしょうか。



ブルーシートが掛かっている傾斜面が第一トレンチと呼ばれる横穴群で、中央の谷を挟んで対面が第二トレンチ、第一、第二トレンチともに反対面の傾斜にもそれぞれ第十二トレンチ、第四トレンチがあります。一番最初の写真に見えるのが第四トレンチで、丘の上からは京都市街、比叡山まで展望できます。




横穴墓の天井は崩落の危険があるため取り除かれています。本来はアーチ状の天井がありました。横穴は手前から墓道、羨道、玄室の三つの部分で構成されていて、玄室に向かうほど標高が高くなるように上向きに掘られています。墓道は入口にあたる部分で溝状に掘られています。羨道、玄室は天井のあるトンネル状の空間になっています。規模はそれぞれ違いますが、羨道入口の高さは0.7m~0.8m程度で玄室では2~3m、奥行きは全体で3~13m、幅は2~3mになります。1室から複数人の骨が発見された穴もあり、家族が同じ墓に追葬されていたとも考えられています。この地域の特徴としては、墳丘を持たない丘陵地に穴を掘った横穴墓が多く、同じ群衆墳の石を用いた横穴式石室が少ないことが挙げられます。これは、この地域に石が採れる産地がなかったことが考えられますが、埋葬方法や副葬品の様相は、ともに大きな違いはなく、横穴墓も群衆墳の一類型として捉えてよいそうです。


次回も遺跡現場の報告になります。