27. 啓志( ケーシー ) 線 | tshellのブログ

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「鉄道」特に「撮り鉄」と「乗り鉄」を紹介します。

大規模団地とショッピングセンターなどで知られる光が丘エリアは、戦前は成増陸軍飛行場があり、戦後は米軍の上級士官の住宅が建設されグラントハイツと呼ばれていました。


成増飛行場の近くには陸軍第一造兵廠があり、昭和18年 資機材輸送のため東上線上板橋駅から貨物線が敷設され、戦後グラントハイツ建設後、居住者向け生活物資などの輸送のため貨物線がグラントハイツまで延伸されました。

グラントハイツまでの延伸を機にこの路線は啓志 ( ケーシー ) 線と名づけられましたが、これはグラントハイツ建設工事責任者のケーシー中尉の名前からきているとされています。


【昭和20年の地図。啓志線はグラントハイツ近くまで来ているが、線路配置は のちのフォーク状の枝別れとは異なっている。グラントハイツには元滑走路と思われる広幅道路が南北に一本あるのみで、建物はほとんど見られない。】



啓志線では、貨物列車だけでなく グラントハイツの居住者の輸送のため、ガソリンカーによる居住者専用旅客列車が池袋駅まで運転されました。( 昭和22〜23年 )


【昭和32年の地図。啓志線末期の姿。グラントハイツ駅周辺には、貨物の積み卸し用と思われるフォーク状のヤードが見られる。グラントハイツには多くの住宅が建てられている。】



その後、グラントハイツの居住者が次第に減るにつれ居住者専用列車が廃止され、資機材輸送もトラック輸送に切り替えられる等で啓志線のニーズは減り、昭和34年に運行は取り止めとなりました。


運行終了後、東武鉄道は路線を買い取って(注) 旅客営業することを検討しましたが、グラントハイツ跡地の利用計画が決まらず採算見込みが立たないと判断して買収は見送られ、昭和40年ごろから線路は徐々に撤去されました。

(注)  啓志線は米軍専用鉄道であり、東武鉄道は線路は保有せず運行を委託されていたのみであった。



昭和40年代まで線路が残っていたので、今もその痕跡が見られるのではないかと歩いてみましたが、50年間の都市化の勢いは激しく、ほとんど面影はありませんでした。


【上板橋駅から東武練馬駅方向を望む。踏切の向こう、大きなマンションの手前で啓志線は左に分岐していた。】


【上板橋駅の東武練馬駅方で分岐した啓志線線路跡の道路。いかにも線路跡とおぼしきカーブを描いている。】


【終点「啓志」駅はこのあたりに在ったと思われる。啓志線は田柄用水路 ( 現在は暗渠となってその上は道路になっている = 写真の中央 奥) の北側 ( 左側 )すぐの所を並行して走っていた。残念ながらそれらしき痕跡は見つからなかった。】



もしも「啓志線」が東武鉄道の支線になって現存していたら•••。光が丘団地からの都心へのアクセスが「都営大江戸線」と「啓志線」の二択となりますが、利便性( 所要時間と運賃) はいい勝負でしょう。「啓志線」の輸送量に比べて東上線のそれは格段に大きいため「啓志線」から池袋駅直通列車の運行は難しく「上板橋」乗換えになると想像。そうなると「大江戸線」で練馬駅で西武池袋線に乗換えるのと時間はほとんど同じ、但し運賃は「啓志線」利用の方が安い筈。一方 都心方面へ行くのなら「大江戸線」は一本で行ける。


そして、もしや「啓志線」に加え「西板線」( 弊ブログ No. 22 ご参照) が現存していたら、「光が丘」発「西新井」行き なんて列車が運転されていたかも•••などと勝手な想像が広がります。