正月三が日、成人の日を超えたあたりから街は「頑張れ」や「きっと勝つ」などと歯の浮くような無責任なキャッチコピーが少しずつ日常を侵食し始めた。

 勿論、対象は穢れ無き受験生、きっと今も机に向かい、なりたい自分になる足掛かりを掴むために志望校を目指して勉学に励んでいるのだろう。

 そのコピーは残念ながら私に向けられたものではない。

 しかしながら私の視線にも入り、勝手に応援された気分になってしまう。

 私は何を頑張ればいいのか。

 五里霧中で暗中模索、ただ生きるのも大変で、いっそのこと何もせずに緩やかな衰弱を迎えることすら視野に入れるほどには、今私は頑張る手前で踠いている。

 そんな私の目に留まったコピーライティングがあった。


「自分に負けるな」


 初出は不明だが、これも今や使い古され擦られた励ましの常套句である。

 私はこれを聞くたびに沸々と怒りに燃え上がる。

 私は私に負ける? ならば勝った私も私なのだから私が勝ったことになるだろう。

 勝つのも私、負けるのも私。

 己が欲望の半分を恰も悪魔の代弁人のように仕立て上げ、誘惑する己に打ち勝て、というのがこのコピーライトの肝なのだろうが、これではあまりにも応援が雑すぎる。

 これを目にするたびに「何したって別の私を倒した私がここにいるのだから、破滅に進もうが光ある方に進もうが勝者の私が選んだことなのだ」と今の私を否定する輩に対し、一言物申したくなる。


 とはいえ言わんとすることも分からなくはない。

 朝の睡眠、これが気付けば何度寝か集計出来ぬまでに繰り返され、朝頃に辛うじて寝惚け眼で見た空がいつの間にか夕景を超えて夜の帷に覆われていることもある。

 これは「眠い」という私に負けた末路と言えよう。

 しかし、これでは私が勝ったという事実も孕んでしまうので、換言して「私は眠気に負けた」と素直に認めるべきだ。

 私は自分に負けたのではない。

 自分の心に潜む欲望や生理現象に負けたのだ。


「自分に負けるな」と無責任なキャッチコピーをばら撒く輩には負けず、未来への最短経路をなぞる線を辿ればいいのだ。

 その試練の先に望む未来があると信じて今に駆けろ。


 と言いつつ、私はどうするか。

 未来への最短経路はどこぞの路地裏よりも入り組んでおり、そもそも先に見える未来も色形共に朧げである。

 私は何になりたいのか。

 私には何が出来るのか。

 それを決めないことには私は自分と戦う資格すらないのだろう。

 負けっぱなしの日々に白星を一つ飾ってやりたいものだ。