(架空の)読者諸君はスケートという競技をご存知だろうか。そう、氷上を刃のついた靴で華麗に滑るあの競技である。近年は羽◯結弦やら宇◯昌磨やらで白熱するフィギュアスケートなどで一気に世間的な人気も高まってはいるが、所詮はテレビで観るばかり。実際に私が氷上を滑ることなんぞ夢のまた夢だと思っていた。
実際も夢のまた夢である。
昨日、ひょんなことからスケートリンクに行くことになった。正直なところ、スキーやスケートなどの冬季スポーツに対しては冬の気候的な問題も絡み一切の食指が動かず氷のように冷めた目で見ていたが、対照的に加熱する仲間のスケート欲に煽られて参加することになった。それに、スケートをせずして人生を終えることに一抹の惜しさを覚えていたのも理由にある。出来るか否かが問題ではなく、とりあえずはやってみよう的な精神を持つことが大切なのではないか。仲間の熱に煽られ凍りついた心が溶け、ポジティブな気持ちが雪解けの隙間から芽吹いたのである。最終的には自己の意志でスケート靴を借り、スケートにトライすることとなった。
しかしどうだ。スケート靴を履いて立つことすら儘ならぬ。氷上に立つところがスタートラインと認識していた私からすれば、スタートラインに立つことすら出来ぬ弱者である。すると、先駆者から「地上ですら立てないのは靴のサイズが大きいからだ」という指摘が飛ぶ。なるほど、つまり靴のサイズを丁度にすれば立てるのか。靴は一回り大きい物を選べとアナウンスしていた運営に恨みを抱きながら靴を交換し履き替える。すると少しはまともになった。生まれたての子鹿からは脱するぐらいには立派な成長である。
だが、氷上に立てば自立を覚えた人類も生まれたての子鹿以下に退化する。スケートリンクの壁際を支えにしなければ自立すら儘ならぬ状態だ。インコースをスイスイと文字通りに滑る上級者が恨めしくもあり、信じられなくもある。壁を押しながら少しずつ滑るも、いざ手を離すとそこから進むことも戻ることも出来ず進退窮まる。「足で氷を蹴ろうとするのではなく歩くつもりで」などとアドバイスされても片足を上げれば身体は不安定に揺れながら後ろに滑っていく。解せない。彼らとは異なる物理法則が私に働いているのだろう。さっぱり理解出来ぬ。
次第に氷上にて足腰をガタガタと震わせてスタートラインで立ち竦む醜態を晒すことに疑問を抱き始める。こうなれば娯楽は終わりだ。娯楽に意味を見出せぬまま懐疑的になってしまえば、娯楽は娯楽としての意味を失い不毛な行為となる。けれど、今回は懐疑心より執念が優ってしまった。何とかして滑るのだ。せめてスケートリンクを一周はせねば。私は何のためにこのシューズを履いたのか。楽しむことは出来ずとも形だけでも真似なければいよいよこの行為が不毛に終わってしまう。それだけは何とかして避けなければならなかった。介護が必要な老人のように一歩一歩を大切に壁を伝う。最早スケートと呼ぶのも烏滸がましい不恰好極まりない痴態だが構わない。私は私なりの"スケート"を果たすのだ。
と、ここで信じられないスピードで華麗に氷上を滑る知人が伝言を持ってきた。「そろそろ行こう」と。場所は丁度スタート地点から半周した位置。ここからもう半周するには30分ほどが見込まれる。実力的な問題から無理と即答すると「リンクの真ん中を通ろう」などと実力に見合わない提案が返ってくる。この男は何を考えているのか。私がリンクの中央に躍り出れば滑ることも出来ぬまま立ち竦み、体育座りの体勢のままリンクの中央でカラーコーンよろしく待機することしかできないであろうが。しかし時間が惜しい彼は私の気も知らず手を引く。するとどうなるか。急に外部から想定外の力が加わり、限りなくアンバランスに近いバランスで成り立っていた均衡は一気に崩れる。しかし転ければ下は鉄のように硬く冷たい氷。身体を打ち付ける前に体勢を低く、更には手をつくことで限りなく安定した姿勢を取る。こうすることで氷上で座り込む情けない男の姿が完成した。側から見ればみっともない格好だろう。だが当人からすれば他人の目なんぞ安全の前では簡単に捨てられる問題である。そして、この体勢のまま知人に押されてリンクを横断することになった。
およそ知りうる限り最悪のスケートデビューである。痴態醜態を世間に晒し上げ、達成感も得られぬまま覚えたのは惨めな感情のみである。スケートなんぞこおりごりである、スケートだけに。氷上では滑れないもののネタだけは上等に滑るものである。