大物いきましょう。

早稲田大学教育学部の2016年の問題です。

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問1 もう「醍醐天皇」に提出した書物から、答えは「三善清行」しかありません。

「意見封事十二箇条」が有名。内容も、戸籍のごまかしが行われています、という一節が読み取れれば解けます。

 

問2 「白村江の戦い」のときの「皇極天皇」が間違っており、その誤りを正せ、という問題ですが、皇極天皇はまあ、大化の改新のとき自分の息子である中大兄皇子が蘇我入鹿を殺害した(かもしれないことになっている)ため、いったん天皇を引退してしまいます。そして天皇になったのが孝徳天皇。その後、白村江のときは称制として中大兄皇子が政務を行いますが、天皇は重祚して斉明天皇と呼ばれています。日本の歴史上、重祚した天皇は皇極=斉明と孝謙=称徳の二人のみ、しかもともに女帝、しかもともに奈良時代の人物です。

 

問3 「かの国の風土記」は「備中」ですが、

・残っている風土記…豊後・肥前・出雲・播磨・常陸

なので、備中の風土記は現存していません。ただ、風土記が712年に編纂されたことは知っておく必要があります。和銅元年は和同開珎にちなんでいますので、708年であり、和銅4年に編纂開始です。ということは、皇極天皇の時代ではありませんし、皇極天皇の時代にはすでに存在したことになります。この文章を踏まえると、「寛平」つまり菅原道真のころの年号にはもう備中国の風土記はあったことになります。時代区分を考えると、「オ」しか残りません。

 

問4 よく読めば…わからないこともない問題です。

大領とは「郡」のトップのことをいいます。これが「国」ならば「守」です。郡のトップ、もともとは郡司ですが、誰が選ばれましたか?…地方の有力豪族です。もちろん、吉備真備は備中出身ですが、735年ごろには中央政界に進出していますので、郡のトップなどを兼任するはずがないのです。よって「エ」が正解になります。

 

問5 「課丁」とは租庸調の負荷を負った人々のことで、少丁(中男)・正丁・次丁(老丁)を指します。この「課丁」の定義を知っておけば、「エ」しか答えになりえないことになります。

 

問6 年号テストですが、延喜元年が901年、つまり10世紀の開始年号であることは覚えてほしい。醍醐天皇の時代です(この年に道真左遷)。アの894年、イの888(阿衡の紛議)からカット、道真左遷(昌泰の変)はそのまま901年でカット。あとは世界史です。唐の滅亡ですが、907年(日本でいえば延喜6年)です。(7世紀、唐ハ暮れないと思っていた=618「唐ハ」~907「暮れない」)なので、このエが一番難しい。となるとカット。答えは「オ」。渤海滅亡は926年です。

 

問7 20年刻みなので、細かい年号を知る必要があります。皇極天皇は大化の改新の時だから645年。延喜11年は、延喜元年が901年なので911年。ざっと計算して266年。皇極天皇の在位中に大化改新が起こったから、おそらく皇極天皇6年は645年よりあと。ということは266年よりちょっと短くなる可能性が高い…と判断する必要性があります。うーん難しい。答えは「ウ」です。