最近のアニメは本来的には日常に属するような性格の感情、出来事を扱うことが多いと思う(実際のところはこうした特徴は多かれ少なかれ日本の創作物全般に当てはまるわけだが)。
誤解、恋愛、人間関係、社会との距離などはもちろん人にそれなりの知性と反省能力があれば、いつでも問題になると思う。それらは悩みの種でもあるともにそれを上手くいくということが適切かはともかく、そうした感想を引きおこす。実際に経験する、そしてそうした経験を創作物が追想起させる。とても気持ち悪い過程だが、何もおかしくはない。その涙を美しく思う人もいるだろう(僕には無理だ)。
僕はそこに感情と生活の貧困と平面化を見る。生活の平面化とは上に書いた安っぽいカラオケ的生活ではない。それは創作物の主題と素材(ここでは創作物に話を制限しておこうと思う)がコピーされ続けられ、目立つ構造と主題だけが残ってしまい、そうした入れ物が何か中身のあるもののように感じられてくるということなのだ。例えば恋愛なんてものは恋愛中の当人たちにとっての個別のそれについての認識はともかく、ありふれた、別の言い方をすればわざわざそれ自体を創作の素材にして、人に新しい経験とその切り口を提供するような題材ではありえない。少なくとも恋愛それ自体を描くこと、著しくデフォルメされた形であれ、は日々の生活を描くようなものなのだ。他人の平凡な休日を追体験することに何の楽しみを見いだせるのだろうか。そんなものは恋愛市場から年齢ととも閉め出された中高年の楽しみに過ぎないはずだ。
しかし、一次元的な生活ではそうならない。恋愛や人の為に何かをすることといった実に平凡な経験セットがそれ自体、稀少な財として物語において消費されている(お金と時間と交換している以上ね)。オタク層では恋愛というものが非現実なものであるゆえにフィクションの題材という資格を得ているのだろうか。オタク連中の容貌、社会資本を考えれば彼らにとって恋愛が非現実性をもつことも納得できなくはない。ましてやアニメに出てくる可愛い異性が心から彼らに振り向くことなどあり得ない。これもフィクション性を高めもしよう。もう一つの考えは、恋愛とか家族愛のような実に平凡な出来事が、シュミラークルを繰り返される過程で、それ自体がそうした物事の典型的な形式!(ゆえに空虚)として、受容側ではそれがリアル(○実在的×現実的)として消費されているのではないかということだ。これでしたり顔で「恋愛なんて面倒くさい」と言えるわけだ。今や本当の体験はメディアの形式にしかないのだから。
飽きた