毎日、暑い。一日に何回「暑い!」と口にしているのだろうか。連日、30℃を超える猛暑。
ボクはデビューしてからというもの、ここ2年で、体重が10数キロほど増えた。だからなのか日中汗をかく量が半端じゃない。
今や、汗を拭くために大きめのハンドタオルが手放せない有様となってしまった。
特に、今週滞在中のここ大阪・道頓堀は東京以上の暑さである。試合すると、体重がそれだけで、数キロ落ちる。それは選手だけに限った話ではない。
試合を裁いてくれるテッドタナベレフリーも全試合を終える頃には暑さと疲労にやられて、顔も体もゲッソリして、控室に戻ってくる。
暑い、夏、大阪プロレス、そしてテッドタナベ……。
ボクは忘れもしない、夏のある日の記憶を思い出した。初めてプロレスのリングに足を踏み入れた、あの日。
場所は、新宿住友三角ビル前広場。
この年の夏もひどい暑さだった。もう今のプロレスファンで当時、ここで行われたイベントを覚えている人は少ないかもしれない。
その“瞬間”のことは鮮明に覚えている。
しかし、このイベント自体の詳細は、何しろボクもまだ小学校低学年だったので、記憶が曖昧だ。
確か、2週間くらいの日程で、いろんな団体が日替わりで無料で、三角ビルの広場で(野外)イベントか試合を開催する、プロレスフィスティバルというような内容であったと思う。
アントニオ猪木のトークショー&サイン会の整理券をもらうための抽選に外れた。
闘魂三銃士トークショーに、整理券をもらうために、早朝から並んだりもした。
2週間、うだるような暑さの中、とにかく新宿に行きまくった記憶がある。そして何より記憶に残っているのが、みちのくプロレスの日だ。
ボクはスペルデルフィンさんが大好きだった。
小学校低学年にして、早くもプロレスマニアっぷりが過熱していたボクは母親に、着古されたTシャツを縫い合わせて、お手製のマスクを作ってもらっていた。(マスクといっても、袋状に縫い合わせて目と鼻と口をくり抜くように切っただけのものである。)
そこに、デルフィンのマスクのデザインを、カラフルなマジックで真似て書いて作り上げていた。全身から出る汗を拭いながら、そのお手製マスクを被って、試合を観戦した。
黄色やピンクの汗がしたたり落ちてきた。
当時、一番下っ端だったTAKAみちのくさんがリング設営や雑用で走り回っていた。呼び止めて、一緒に写真を撮ってもらった。暑さで顔をずっとしかめてたのが、印象的だった。
売店にいたグレート・サスケさんにもサインをもらった。メインで試合を裁いたテッドタナベレフリーが、選手よりもしんどそうに肩で息をしていた。
休憩中「SATO(現・ディック東郷さん)のちびっこプロレス教室」というコーナーがあった。そこでボクは、生まれて初めてプロレスのリングに上がり、リングの中から客席を見下ろす光景をみた。
歩いた、走った。ロープをまたいだ、プッシュアップをした。プロレスラーに声をかけてもらった。
忘れられないあのマットの感触。
暑さはどこかに吹き飛んでいた。
引き寄せられるかのように、ボクは今、みちのくプロレスの流れを汲む、大阪プロレスのリングに上がらせてもらっている。
先週、大阪プロレスの控室の冷房が故障で動かなくなった。いまの時期、クーラーがなければ、はっきり言って地獄だ。
だけど、テッドさんが試合を終え全身汗でビショビショになっている姿をみると、なぜかプロレスラーとしての本当の初心に戻れた気がしたのだった。
(昔のブログを加筆修正し再録してみました)
ファンタスティカマニア
ルチャリブレ
に導かれ
名鉄瀬戸線に揺られて
2009年に亡くなられた
テッドタナベさんのお墓参りに
行ってきました。
2008年ごろ参戦させてもらっていた
大阪プロレスの控え室で
「田尻君が若手の頃はね~、・・・。」
「ユニバの頃はね~、・・・」
ゆっくりお話をさせてもらったものです。
カン高い声が忘れられません。
テッドさん
ご無沙汰しております。
ボクはあれから紆余曲折ありましたが、プロレスラーとして今も生きてます。
ファンタスティカマニアというルチャのシリーズで名古屋に来ましたよ。
焼いてもらったユニバのDVDは今もちゃんと大事にとってあります。
ルチャリブレも、ルチャドールも、メキシコも、プロレスもみんな元気にやってまっす!!
2017年1月 KUSHIDA