喪失感が大きい人に言わないで欲しいんだ。
大切な人を亡くした人に
絶望の淵にいる人に
「神様は乗り越えられない試練は与えないよ」
って言わないで上げて欲しいのです。
例えそれがその人を勇気つけよう、元気つけようという優しい思いからのでも、
試練なんて言葉を使わないで欲しいのです。
そもそも絶望や大切な人の死は試練なのですか?
絶望の時のその苦しさは試練なのですか?
乗り越えなければいけない試練なのですか?
だとしたら、
何を試されているというのでしょうか?
絶望に飲み込まれないでいられるか、そこからどう抜け出すかを試されているということなのでしょうか?
強くなれという試練なのでしょうか?
では、その人は弱いからそういった試練が来たということなのでしょうか?
子どもを亡くすことは試練なのでしょうか?
試練だったら、何をためされているのでしょうか?
哀しみに打ちのめされずに、何か意味を見つけ出し進んで行ける強さを持てるかどうかでしょうか?
もし、試練だとしたならば、これらを乗り越えられなければその人はダメなのでしょうか?
悲しんで打ちひしがれて、その時間が長いことはいけないということなのでしょうか?
本当に大きな絶望や喪失を経験した人なら分かると思いますが、絶望や喪失は自分でそのことに対して何らかの意味を見つけ出し、これで良かったんで。と思えるようになる作業なのです。それを人生の一部として受け入れていく、そういった作業なのです。
それにはとてもとても長い時間がかかる場合があります。
数年で終わる人もいれば、数十年かかる人も、または一生かかる人だっているのです。
私は2歳の息子を亡くした時、こころの整理に10年以上かかりました。
本当ならもっと早く受け入れられたかもしれません。が、この困難を乗り越えなければ!!!と思い、亡くなった息子の為にも頑張らなければ、元気で生きていかなければ!!と思い
悲しんでいる自分をダメだ!!と思いとっても頑張りました。
励ましたいと思っても傷付けていることだってあるんです。
乗り換えられない試練はないという言葉は時と場合によっては、人を追い詰めてしまうのだと私はかんじます。
泣き言を言ってはいけない、弱音を言ってはいけない、頑張らなければならない、そんな思いで当事者ががんじんがらめになってしまう、危うさがあると思うのです。
悲しみを癒すためには、頑張ろうとするまえに、悲しみを十分に現すことが、回復するためにはひつようなのに...。自分で奮起するためにその言葉を言うのならまだしも、人が亡くなった時に言うことではないと感じました。
かける言葉は慎重にえらばないとですね。
周りがよかれと思って言うことが当時者の心境を見間違うことで不適切な発言となり、傷つけてしまう、無理をさせてしまうことがあり、そのことを他の人に知ってもらい
最近、友人が15歳の息子さんンを亡くしました。手紙に他の人から「乗り越えられない試練はない」と言われたので、毎日を頑張っていると書いてありました。
悲しんではいけない、何とか前に進まなければいけない。この試練を乗り越えなければいけない。そんな気持ちから自分の本当の気持ちに蓋をしてしまうことがあり、自分の人生よりも亡くした子の為に生きなければと思ってしまい、そのことで起る弊害を自身の経験から知っています。私は息子の記憶を無くしました。無理をし、受け容れるまでに、人生の宝のけいけんだったと思うまでに10年はかかりました。不思議なもので、受容できてから記憶はぶわ~とよみがえりたした。
とにかく時間がかかる、受け容れの作業なのです。それを知らないで、安易に試練なんてこと言わないで欲しいし、ご本人にもそう思って欲しくないと強く感じます。
どうか、ただ寄り添ってあげてください。
傷ついた人、つらかったね。
つらいね。頑張らないで。私に話して。
心理カウンター佐織より。