ジェンキンスさん、北朝鮮側の矛盾を指摘 | trycomp2のブログ

ジェンキンスさん、北朝鮮側の矛盾を指摘

 北朝鮮による拉致被害者曽我ひとみさん(46)の夫ジェンキンスさん(65)が朝日新聞社のインタビューに応じた。横田めぐみさんが死亡したとする北朝鮮側の説明の矛盾点を指摘するとともに、信憑性(しんぴょうせい)に疑問を投げかけたほか、家族と過ごした北朝鮮での生活を詳細に語った。

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 ――警察庁が、大阪市の調理師原敕晁(ただあき)さんの拉致実行犯として国際手配している辛光洙(シン・グァンス)容疑者を知っていますか

 名前は日本に来てから聞いた。

 ――ジェンキンスさんが04年に北朝鮮を出た時辛容疑者は北朝鮮で何をしていたのでしょう

 仕事には就いていなかった。金大中(キム・デジュン)・前韓国大統領の「太陽政策」で韓国から戻ってきた人は、私の娘たちが通った「外国語大学」そばのアパート1カ所に集まり、彼もそこにいた。妻のひとみも名前は知らなかった。工作員は多くの名を持っているから。妻に聞いたが、彼は妻の拉致実行犯ではない。拉致被害者の横田めぐみさんと一緒に暮らした時に彼に会ったと言う。招待所では、指導者が2人に朝鮮語や数学を教えたらしい。

 ――指導者は複数いたのでしょうか

 人数は知らない。1人の女性が指導者の監督役だった。(1978年から約1年半)ひとみとめぐみさんは平壌より、少し南の郊外で一緒に暮らした。料理人から、近所に拉致された日本人女性がいると聞き、冬の早朝、2人は雪かきしながら、その家を訪ねた。が、そこの料理人から女性は前日入院したと言われ、結局、会えなかったそうだ。

 ――北朝鮮でひとみさんの拉致実行犯に会ったり聞いたりしたことはないですか

 それはない。

 ――ひとみさんの母ミヨシさんも、拉致されたままです。北朝鮮ではミヨシさんの行方について聞かれましたか

 ひとみは80年に結婚する直前、拉致当時のことを私に話してくれた。その後、私は軍隊の幹部に問い合わせた。彼は「軍の拉致部隊は日本に帰した」と答えた。私はうそだと思ったが、ひとみにそのまま伝え、妻は帰国するまで、母は日本にいると信じていた。

 ――めぐみさんが死亡した場所とされる平壌市の「49予防院」について知っていますか

 行ったことはないが、娘たちが通った小中学校の近くだ。(78年ごろに)同居した料理人から、通院したことがあると聞いた。床に座って待つ人、立って新聞を読んで待つ人と、いつも混雑していたそうだ。とても水準の低い病院なので外国人が入院することはありえない。病院の医師は日本政府に「めぐみさんは首をつった」と説明したそうだが、私は「手首を切って自殺した」と聞いている。

 ――いつですか

 02年10月15日、平壌空港に妻を見送りに行った時だ。めぐみさんの姿がなく、朝鮮労働党幹部に「なぜめぐみさんは帰さないんだ」と尋ねた。

 ――その時、めぐみさんの娘、キム・ヘギョンさんに会いましたね

 会ったが、私は話しかけなかった。妻は話していたが、何を話したかは私には語らない。北朝鮮はめぐみさんを火葬したというが、北朝鮮では通常、火葬しない。電力が足りないからだ。伝染病の時などに限り、政府は火葬を命じる。

 ――著書「告白」(角川書店)で、キム・ヘギョンさんが空港まで乗ってきた車のナンバーから、「父親は陸軍」と推測されています

 濃紺の古いトヨタ車で、高級車ではなかった。飛行機出発後、そこにいた軍将校が私たちに空港正面に来るよう指示したが、キム・へギョンはそんなことは聞かずに祖父母(横田滋さん夫妻)からの贈り物を受け取りに出かけていった。

 北朝鮮は、ひとみに戻ってきてもらうため土産をたくさん用意した。拉致被害者は朝鮮労働党に管理されるが、ひとみは陸軍と一緒にいる私のところに送られてきた。軍の内情をよく知る私を離さないため、ひとみに戻ってきてほしかったのだろう。

 ――「告白」で「馬東熙(マドンヒ)大学」について書いていますが、工作員の養成機関なのでしょうか

 私が教えた部隊は軍服を身につけず、「半軍人」と呼ばれるが、工作員だ。娘たちが通った「外国語大学」は100%文民。でも同大卒業後、軍隊に入る人もいれば、馬東熙大に来る人もいる。外語大は(大韓航空機爆破事件実行犯とされる金賢姫(キム・
ヒョンヒ)元死刑囚も)卒業したと韓国のラジオ放送で聞いた。

 ――04年5月22日、再訪朝した小泉首相と会う前に北朝鮮政府から「こう答えるように」などの指示はあったのでしょうか

 当日の朝、娘と3人で首脳会談終了を待っていると、北朝鮮外務省首脳が来た。「ジェンキンスが北朝鮮を出れば米国は彼を収監する考えだ」と中国が伝えてくる米国のすべての話をもとに、こんこんと説いた。

 あの日、私が出国すると言っても、北朝鮮は行かせなかったろうし、金正日は娘2人を北朝鮮に残しただろう。北朝鮮は「ひとみを連れ戻せば新車でも何でもあげる」とも言っていた。でも北朝鮮ではガソリンがないから、新車をもらっても動かせないよ。食料もない。北朝鮮を出る時の体重は48キロ。今は70キロ以上だ。妻から「太りすぎだ」と言われると、「君もだ」と話している。

 ――同年7月9日、インドネシアでひとみさんに会いました。同行した北朝鮮の当局者は、なぜ、日本に行くことを認めたのでしょう

 なぜ止められるだろうか。ジャカルタのホテル34階で「日本に行く。北朝鮮に帰らないと決めた」と告げた。インドネシア外務省の幹部も同席し、ビデオカメラもまわり、みんなが見ていた。言い合いもしなかった。

 ――長女美花さん、次女ブリンダさんには、母親が拉致被害者だといつ話したのですか

 私より先に、ひとみが話していた。私が美花に話したら「ママから聞いている」。2人が小さいころに話したようだ。

 ――北朝鮮では娘さんたちと英語で話していたのですか

 100%朝鮮語。2人は外語大で英語を勉強し、ブリンダは美花より話したり書いたりできるようになった。美花は自分の名前を書くぐらい。外語大でさえ教科書は学生2人に1冊しかなく、勉強できなかった。

 ――拉致被害者の増元るみ子さんについて聞いていますか

 彼女の名前を知らないが、(北朝鮮で一緒に過ごした元米兵3人のうちの1人、故パリッシュ氏の妻)シハムが、今は18歳ぐらいになる息子のリッキーを出産した病院で、5日前に出産した女性がいた。シハムが病室で英語の本を読んでいるのを見て、女性が米国人のような英語で話しかけてきて、「私は拉致されたの」と言った。シハムも「私もよ」と答えたそうだ。私はシハムの夫から聞いた。

 ――有本恵子さんですね

 そうです。それから1カ月後、平壌の外貨専用の百貨店にシハムたちと出かけたら、有本さん夫妻に会った。夫がすばらしい英語で、旧知の間柄のように話しかけてきた。妻同士が知り合いだったので安心したのだろう。北朝鮮は(有本さんに)娘がいたと言っているが、息子だと思う。シハムがそう言っていた。

 ――「告白」に1971年に「オサダ」という名の日本人男性に会ったと書かれていますが、特定失踪(しっそう)者問題調査会の写真の中にその人はいませんでしたか

 いいえ。

 ――(北朝鮮で一緒に過ごした元米兵のドレスノク氏の亡き前妻)ドナさんに関する情報はありませんか

 ドナという名前だけです。母親がロシア人、父親がルーマニア人。それ以上は言いたくない。本人の確認作業が進んでいるところだから。いずれ確認できるだろう。

 (一緒に過ごした元米兵の故アブシャー氏のタイ人妻)アノーチェについて北朝鮮は「タイ人女性を拉致したことはない」と反論していたが、彼らはまさか私が写真を持っているとは思わなかったろう。裏に84年夏の年月も入れてある写真だ。ドナはもう亡くなっているので助けられないが、アノーチェはまだ北朝鮮にいる。助けたい。危険を覚悟でこっそり写真を持ち出した。
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