【拉致】「弟が北で生きているですって?」 | trycomp2のブログ

【拉致】「弟が北で生きているですって?」

 「あの時、行かせなければよかったのに。何があっても止めるべきだったのに…」

 38年ぶりに弟が生きているという知らせを聞いた姉は、大粒の涙を流した。1968年8月7日、東海(日本海)上で拉致された当時、注文津水産高校3年生だったキム・インチョルさん(当時17)の姉、ヨンスクさん(60)。4日午前、ソウル市松坡区の北朝鮮拉致被害者家族会(崔成竜代表=54=)の事務室で会ったヨンスクさんは弟が生存しているという知らせに目頭を熱くした。家族全員で警察署に幾度となく出入して弟の消息をつかもうとしたが、弟の生死はまったく分からなかった。そして38年後、弟が生きているという知らせが今月3日の本紙に掲載されると、ヨンスクさんは4日午前、拉致被害者家族会の事務室に駆け込んだ。

 「母の “仕事”は一日中、弟を探し回ることでした。朝ご飯食べては警察署へ行き、昼ご飯を食べては国軍機務司令部(軍事関連捜査機関)へ行き…。弟といっしょに拉致されてから戻ってきた船員たちのところを訪ねて回り、弟の消息を聞いたこともありました。魂が抜けたように弟を探してばかりいました。母にインチョル生存の知らせを聞かせてあげたかった…」

 68年8月6日、当時注文津水産高3年に在学していたキム・インチョルさんは、夏休み中に束草の家に来ていた。束草でも裕福だったキム・インチョルさんの家には部屋がたくさんあったので、夏休みの中に学費を稼ごうとイカ釣り漁船に乗るためソウルから来た大学生が大勢泊まっていた。この日の昼ごろ、キム・インチョルさんは突然「僕も一度船に乗ってみたい」といった。キム・インチョルさんの両親は強く反対した。学費稼ぎのために漁船に乗る人もいるが、何不自由なく育てた3男1女のかわいい末息子の学費が工面できないわけでもないし、ただの好奇心で危険な漁に出すのは許せなかった。しかし両親は結局、息子を止められなかった。午後に出漁し翌日午前に戻ってくるという短い予定だったので、もしやと思いながらも承諾した。そして、それが長い別れの始まりとなった。

 6日午後3時ごろ、束草港を出発したトクス2号は翌日午前になっても戻ってこなかった。母親(88年死亡)は寝食を忘れて精神を病んだかのように息子を探し回った。

 しばらくして拉致されたトクス2号の船員13人が戻ってきたが、キム・インチョルさんを含め6人は北朝鮮に抑留されたまま戻ってこれなかった。母親は戻ってきた船員たちをつかまえて「どうして高校正のうちの息子だけを北に残して戻ってこれるんだ」と声を荒げたが、それだけだった。拉致され、あらゆる苦痛の末、戻ってきた船員たちは、北に仲間を置いてきたという罪悪感にさいなまれ「私にも子供がいる身なのに、まだ若いインチョルを一人で置いて戻りたくはなかった」と母親に許しを請ったが、母親は結局、息子の顔を二度と見られずにこの世を去った。

 父親も、キム・インチョルさんが拉致されてから言葉を失った。時おり友人が訪れ、「すぐ戻りますよ」と慰めたが、「うちのインチョル、うちのインチョル!」と息子の名前を呼ぶだけでうつろな目をするだけだった。息子を失った悲しみは胸にしこりとして残った。父親は神経症を患い86年、この世を去った。

 キム・インチョルさんの写真は韓国に一枚も残っていない。「友達と一緒に制服を着て撮った写真が何枚もあったけど、警察や機関の関係者が全部持っていってしまいました。今回、金英男さんがお母さんやお姉さんに会ったのを見て、本当にたくさん涙を流しました。うちの母もインチョルへの思いでいっぱいだったのに」。ヨンスクさんの声が震えた。

 「私にとってインチョルは母そのものです。母はインチョルへの思いだけを胸にこの世を去ったからです。必ず生きていると信じていたが、こうして生きているという知らせが聞けて、とても感謝していますし、一日も早く会いたいという気持ちしかありません」

アン・ジュンホ記者

朝鮮日報
朝鮮日報 Chosunilbo (Japanese Edition)