アニメとラノベのはなし | でたとこTRY@CATCH!

アニメとラノベのはなし

どうして、ラノベではあんなにつまらなかった作品が、
アニメになると面白くなるのだろうか。

この疑問に対する答えに、ただ、「アニメ制作会社の腕」と自分を納得させていたが、
それだけではないと、真の解答に辿り着いた気分なので、言おうかと。

小説にしろアニメにしろ映画にしろ演劇にしろ、
見る者を虚構の世界へ誘う代物であることに代わりはない。
例外として、作品が作品自体を鑑賞する、というメタレベルのものもあるが……まあそれはおいといて。

虚構の世界に誘われているからには、
そこには作品と自分しか存在してはならない。
けれどもラノベの9割においては、「作者」が登場してしまう。

作者の意図が文章中から透けて見えてくる。

客のいないソバ屋で、注文したソバをすすっていると、店主が「ほらおいしいでしょう」という顔を向けているのが分かるようなもので、
「ほら、ここはみなさんの期待に応えた展開ですよ」というラノベの作者の顔。
その顔、顔!
満面に自信と笑みをたたえた作者の顔の登場で、一気に物語から現実に引き戻されるのだ。

作者:「さぁ、お馴染みのドジッ子の登場です」
作者:「当然ながら巨乳です」
作者:「みなさまのお望み通りのシーンを入れときました」

それが多ければ多いほど、その小説は、とたんに字の書かれた紙になりさがる。
読むのが苦痛になり、結末などどうでもよくなる。

しかしながら、アニメで同じことをやっても、作者の顔が見えたり、冷めた気分になったりしない。
現実に戻ることはない。

なぜなら、
アニメを観るとき我々は、
美麗な映像で視覚的に満たされ、感情のこもった台詞で聴覚的にも満足するからだ。

小説では読者の脳内だけで視覚・聴覚もろもろあらゆる感覚を想像し補わねばならない為、脳の中の想像世界が小さくひび割れるだけで、補ってきた感覚が次々と破綻していく。
ところが、アニメでは、視覚と聴覚を脳の想像にまかせなくて良い分、破綻がおきにくいのだ。

で、あるから、ラノベ作品がアニメになると、感覚をフリーダムにし、物語を純粋の楽しめる。
「作者の邪魔」によって奈落の底に沈んだ小説が、アニメとなって不死鳥のごとく復活する背景には、どうやらそんな理由があるのだと、さっきお風呂で思った。

じゃ、DSやるんで。