がフィット埼玉県立近代美術館に『モダンアート再訪~ダリ、ウォーホルから草間彌生まで~福岡市美術館コレクション展』を観にいった。

 

なんせ自宅から近いので暇があればよく行く。特に今の時期は公園が気持ちいいのでよく行く。以前はこの近くに勤めていて、仕事中にさぼりに行っていた。小さい子供連れや、行き場のないおっさんが日がな一日のんびりしていたりして、なんだか落ち着くのだ。

 
企画もとてもよい。前年度などは遠藤克利、駒井哲郎、ディエゴリベラ、現代版画センターといったたまらん企画が続いていた。なので今回の福岡市美術館ってずいぶん地味だなと思ったものだ。同時期にプーシキンだとかピュールレだとか華やかな企画が都内であったので余計にそう思ったのかもしれないが。
 
いや、行きましたよ、なんせ近いし。もっというと、結局3回ほど行ったんだけども。
 
最初にフジタの裸婦がかかっていて、モダンアートのくくりなのかフジタ、と思いつつ、見たことのある知らない画家の作品、なんだっけなんだっけ、ヴァリスだヴァリス!ディックだよフィリップだよ!
かなり感激した。つか日本人画家のものだとも知らなかった。藤野一友、覚えよう。
 

 

河原温、池田龍雄の不穏な線画があり、海老原喜之助もある。この人ってフジタの弟子じゃなかったか。なるほどフジタの裸婦が効いてくる。

 
それで九州派である。話しだけは見聞きしていたけど、作品はほとんど見たことがなかった。図版ではあったけど。今回まとめて見ることができて本当によかった。
 

コールタールやアスファルトを用いた表現が特徴的で、その名を有名にしている。当時の生活に根差した、とよく説明される。

昭和30年代、石炭から石油への転換で大規模な合理化がすすめられ、数百人単位での死者を出した炭塵事故が相次いだ、三池闘争に代表されるような混沌として暴力的で不条理で凄惨な生活、である。また、水俣病が社会的な問題になった時期でもある。

僕が学生の頃、福岡出身の同級生がいて、土門拳の筑豊のこどもたちの話になったことがある。同い年だからすでに炭鉱はほとんど閉山していたはずだけど、当時のことは見聞きしていたのだろう。地獄みたいなもんだよ、と言葉少なげに言ったのをよく覚えている。

炭鉱だけではなく、地方の農村部から都市への集団就職に見られるような、大きな共同体の変化もあった。金の卵ってやつだが、このネーミングはほんとに悲しく切ない。

生活の変化、というより、生活が引き裂かれたような印象がなんだかある。終わらせようとするおおきな力である。もちろん終わらせるのは、戦後である。

 

そんな時代環境がバックグラウンドにあり、新しい芸術として紹介されていたアンフォルメルや抽象表現主義の文脈をチョイスするのは、よくわかる気がする。血気盛んで貧しくて、厳しい労働に身をやつしている、才能しかない若い芸術家にフィットするのは、ほとんど必然な気がする。

熱いコールタールをベニヤ板にぶちまけ、ガソリンをかけて火を放ち、残ったものが作品だというのは、狂気を感じるくらいに常軌を逸しているが、ロマンティックですらある。

 

そんな風に思いながら作品を見ていたのだけど、黒が、黒色がすばらしい。

コールタールやアスファルトの黒い色。独特の光沢、洗っても洗っても落ちない粘り気のある重量感、釘を打ち込んだり火をかけたり、サディスティックなくらいに暴力的だが(タイトルがリンチっていうくらいだし)、それに負けない強靭さがあるマテリアルを選んだのは、必然的だが社会性だけではない。すばらしい黒のためでもあったはずだ。奪われる人間性を直情的に抽象化するために、すばらしい黒を持つコールタールやアスファルトが必要だったはずだ。

アスファルトは当時安価で手に入れやすくて、社会的な意味合いから使われたという説明もあり、それはまちがいないと思うけど。

当たり前だけど、芸術を社会性だけでつくれるわけないもんな。とはいえこれほど社会的な歪みの中でしか出てこない表現もないだろう。

九州という場所が時代の大きな力に拮抗する芸術家を産んだ時、アンフォルメルとも抽象表現主義とも違う、もちろん具体とも違う、九州派という場所にワープしてしまったようだ。

 

残すつもりなく残されてしまった作品は、これからたくさんの人たちが鑑賞することになるだろうし、研究もすすむだろう。そうなるべき価値のある作品群だ。

 

もし残されなかったとしても、50年後の僕らが、無人の炭鉱に誰にも聴こえない大音響のノイズが響き続けていることに、きっと気付くに違いないと思う。