薩摩焼15代の沈 壽官(54)さんが、このほど韓国のソウルで、自身初めての展示会を開いた。
来年には父祖の地、慶尚北道青松郡に代々の展示館が出来るという。
薩摩焼、沈壽官家と言えば司馬遼太郎さんの短編「故郷忘(こきょうぼう)じがたく候(そうろう)」に詳しい。
薩摩焼は秀吉の朝鮮出兵の時連れ帰られた陶工によって始められた。
当時は戦国大名の間で、千利休らの茶の湯全盛時代、渡来ものの茶碗は、司馬さん流に言えば「千金の価」がしたという。
朝鮮に出兵した薩摩の島津公は連れ帰った陶工を、領内の苗代川に住まわせ士分与えて保護した。
当初島津公は、鹿児島城下に住まわせようとしたが、沈家を含む17姓の韓人たちは、秀吉軍を先導した韓人がすでに城内に住んでいることから、城内に住むことを拒否したのだと言う。
それから400有余年、苗代川に住む子孫たちは身を粉にして働き、薩摩焼を隆盛に導いた。
幕末の頃には長崎を通じた重要輸出品にまでなり、倒幕の重要な資金源になったという。
ボクもその美山と呼ばれる薩摩焼の地に一度行ったことがあるが、素晴らしいのは静かなたたずまいの土地と共にその地に根を降ろした人たちの生き方であろう。
「うそを言うな。負けるな。弱い者をいじめるな。東郷先輩につづけ、美山の子」
司馬遼太郎さんが訪れた時、こんな看板があったという。東郷先輩と言うのは、大日本帝国最後の外務大臣東郷茂徳。
400年前に士分を与えられた人たちは、その時から日本人となったのだが、代々李や金などの韓姓を名乗り、朴姓の東郷さんだけ例外で日本人の姓名を名乗ったのだと言う。
もちろんそのため、日本人であるのに言われ無き差別を受けたり不自由なこともあっただろうが、自分たちのルーツを忘れず日本の社会で精一杯努力して生きて来た。
かつて先代の14代壽官氏はソウル大学の講演でこう言った。
「あなた方が日帝36年をいうのであれば、私は370年をいわねばならない」
15代壽官氏は、30才の時に一年間、韓国利川の工房でキムチ瓶(かめ)を作る修行をしたという。技術は薩摩焼の方が上だろうから、学びたかったのはその精神だったろうか。
与えられた宿命の中で己れの血を大切に思い、今を生きる。
久しぶりに薩摩焼の沈壽官家の消息に接し、またその伝統が後代に伝わっていくことがボクにはうれしい。
・・・ところで、14代がソウルで「そろそろ過去に決別を」と言ってから40年も経ったろうか、現状はどうだろうか?
まだまだ両国の負の連鎖は断ち切れないようだ。
安倍首相は「侵略の定義は学説上・・・」と言い、橋下大阪市長は「従軍慰安婦は強制だったかどうか・・・」などと論議の蒸し返しを始めている。
枝葉末節の論議は学者や研究者に任せて、「あの時はすまなかったね」とお互いがあやまちはあやまちと素直に認めることで、初めて真の意味で過去と決別することが出来るような気がする。
そのことを切に願う。
来年には父祖の地、慶尚北道青松郡に代々の展示館が出来るという。
薩摩焼、沈壽官家と言えば司馬遼太郎さんの短編「故郷忘(こきょうぼう)じがたく候(そうろう)」に詳しい。
薩摩焼は秀吉の朝鮮出兵の時連れ帰られた陶工によって始められた。
当時は戦国大名の間で、千利休らの茶の湯全盛時代、渡来ものの茶碗は、司馬さん流に言えば「千金の価」がしたという。
朝鮮に出兵した薩摩の島津公は連れ帰った陶工を、領内の苗代川に住まわせ士分与えて保護した。
当初島津公は、鹿児島城下に住まわせようとしたが、沈家を含む17姓の韓人たちは、秀吉軍を先導した韓人がすでに城内に住んでいることから、城内に住むことを拒否したのだと言う。
それから400有余年、苗代川に住む子孫たちは身を粉にして働き、薩摩焼を隆盛に導いた。
幕末の頃には長崎を通じた重要輸出品にまでなり、倒幕の重要な資金源になったという。
ボクもその美山と呼ばれる薩摩焼の地に一度行ったことがあるが、素晴らしいのは静かなたたずまいの土地と共にその地に根を降ろした人たちの生き方であろう。
「うそを言うな。負けるな。弱い者をいじめるな。東郷先輩につづけ、美山の子」
司馬遼太郎さんが訪れた時、こんな看板があったという。東郷先輩と言うのは、大日本帝国最後の外務大臣東郷茂徳。
400年前に士分を与えられた人たちは、その時から日本人となったのだが、代々李や金などの韓姓を名乗り、朴姓の東郷さんだけ例外で日本人の姓名を名乗ったのだと言う。
もちろんそのため、日本人であるのに言われ無き差別を受けたり不自由なこともあっただろうが、自分たちのルーツを忘れず日本の社会で精一杯努力して生きて来た。
かつて先代の14代壽官氏はソウル大学の講演でこう言った。
「あなた方が日帝36年をいうのであれば、私は370年をいわねばならない」
15代壽官氏は、30才の時に一年間、韓国利川の工房でキムチ瓶(かめ)を作る修行をしたという。技術は薩摩焼の方が上だろうから、学びたかったのはその精神だったろうか。
与えられた宿命の中で己れの血を大切に思い、今を生きる。
久しぶりに薩摩焼の沈壽官家の消息に接し、またその伝統が後代に伝わっていくことがボクにはうれしい。
・・・ところで、14代がソウルで「そろそろ過去に決別を」と言ってから40年も経ったろうか、現状はどうだろうか?
まだまだ両国の負の連鎖は断ち切れないようだ。
安倍首相は「侵略の定義は学説上・・・」と言い、橋下大阪市長は「従軍慰安婦は強制だったかどうか・・・」などと論議の蒸し返しを始めている。
枝葉末節の論議は学者や研究者に任せて、「あの時はすまなかったね」とお互いがあやまちはあやまちと素直に認めることで、初めて真の意味で過去と決別することが出来るような気がする。
そのことを切に願う。