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東泉寺虹梁~高山文五郎作

岩根沢の三山神社の虹梁を手がけた高山文五郎は、周辺にも遺作を残していました。

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東泉寺~西川町間沢

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もう4年ほど前になるでしょうか?たまたま六十里越街道を歩くという企画で訪れた岩根沢の三山神社(日月寺)で見た彫刻だったのですが、最近調べてみたら作者も残る高名なものだったことがわかりました。

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東泉寺

さすが宮大工のO君、ボクが案内人のはずだったのですが、いろんなことを説明してくれました。

この放射状の垂木(たるき)はルート計算で作るそうで、端っこに行くにつれて拡がりが変わっていくのだそうです。江戸期ですから、和算で出したのでしょうか?手の込んだ分、格式のある作りと言えるのだそうです。

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本道寺

本道寺は本当に(駄じゃれではありません)廃仏毀釈の荒波をまともに受けた残念なお寺です。

この階段が物語っています。今は、口ノ宮湯殿山神社と呼ばれ、国道112号線を通ると失礼ながら湯殿山神社の出張所のように見えます。

実はこの国道の下を旧街道からの石段がつらぬいているのです。

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仁王像(阿形)

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仁王象(吽形)

寺宝は散逸し、この仁王像も仙台ホテルのロビーを飾っていたものがようやく戻って来たものだそうです。
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注連寺

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注連寺 龍 天井画

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鳳凰

また大網の注連寺には、生きながら五穀を断ち仏となった鉄門海上人の即身仏があります。

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注連寺 森敦文学碑

森敦(もりあつし)さんは、奥さんの故郷が山形の庄内だったことが縁でこの注連寺の庫裏で過ごした日々を20年後に小説「月山」にして、当時の最年長記録62歳で芥川賞を受賞しました。

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「全ての吹きの寄するところこれ月山なり」

六十里越街道は山形と庄内を結ぶ街道でしたが、いくつかの峠を越える難所がありました。この注連寺と大日坊のある大網、七五三掛(しめかけ)は十王峠と賽ノ神峠の間にある集落です。

晴れていれば本堂からこの方向に月山が見え、森敦さんは右手の庫裏で暮らしていたそうです。「全ての吹きの寄するところ」は日本海から吹き付ける雪がこの集落を閉ざし月山に向かって吹き上がっていくさまを言ったものでしょうか、若き頃文壇デビューし、今はその才能をくすぶらせている境遇を言ったのでしょうか?

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本堂奥の間で開催していた写真展より・・・引用ごめんなさい。

たまたま本堂奥の間で開催していた写真展のこの写真と本堂から見える景色を見ていたら、小説「月山」の描く自然の厳しさと、そこはかとないなまめかしさを想い出しました。

六十里越街道寺社巡り(後編)に続く・・・あんまり長くなるので疲れました。3回に分けます。