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於節の曼陀羅

毎年11月3日は仙台新寺小路(しんてらこうじ)の善導寺所蔵の、於節の曼陀羅が見られる日。

この日は、お節さんが七北田の刑場で、磔(はりつけ)にされた命日にあたる。

内の奥様お節と云うて

年は二十二で今咲く花よ

無念涙で月日を送る

能登の家中の御用役人に苗字新藤名は喜右衛門よ

年は二十九で器量よき男

・・・・この口説(くどき)はこんなふうに語っていく。「口説」とは旅の芸人が、節をつけて語る芸能のことで、当時のセンセイショナルなこの事件を、脚色して作られ語り継がれてきたのだろう。

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女川(飯田)口説 文化10年(1813年)写本

お節さんは、伊達の一門「飯田能登」の妻、喜右衛門は能登の家来。主殺しと逃避行、道ならぬ恋の行く末は、獄門磔(ごくもんはりつけ)。

5月19日に捕らえられた二人は仙台に護送される。お節さんは処刑の日までの三ヶ月、片平町の獄舎につながれている間、自分の帯をほどいてこの曼陀羅を、松の葉を針にして仕立てあげたという。

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そして11月3日、喜右衛門の処刑日11月6日に先立って、お節は七北田(ななきた)の処刑場へと向かう。

市中十八丁引き回しが、荒町から畑中にかかったあたりで、お節は非人に頼んで遍照寺にこの阿弥陀如来の刺繍を納めてもらったという。

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七北田(ななきた)刑場があったところ

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遍照寺は廃寺になり、今は善導寺がこの阿弥陀如来の曼陀羅を引き継いでいる。

封建社会は非情だ。酒色におぼれる主人から逃れて落ちた道ならぬ恋の行く末殺人事件。現代の日本であれば懲役10年もあるのだろうか?

口説は、処刑を見に集まった群衆に向かって、お節さんが、

わしを末代手本となして

必ず悪行したまうな
 
夫と大事とかしづきて

必ずよその男に目なかけそ・・・

と結ぶが、今となっては誰もお節さんの心境はわからない。

・・・来年の11月3日、お節さんの曼陀羅を見に、仙台の善導寺に出かけてみませんか?