日塔(にっとう)喜右衛門、芭蕉の辻にて三日さらし竹鋸引き、市中引き回しの上、七北田刑場にて磔(はりつけ)。
勢津(せつ)、同所にて磔。
喜右衛門罪状、伊達藩譜代の家来ながら、主の妻、勢津と不義密通の上、主人、飯田(はんだ)能登を殺害し、出奔したる罪。
勢津罪状、主人家来、喜右衛門と密通したのみならず、主人殺害を手助け、出奔したる罪。
頃は宝暦二年(1752)四月八日、仙台藩内桃生郡女川村、飯田能登屋敷。村の鎮守の祭礼の日。
かねてより喜右衛門とお勢津は、主人能登留守の折、逢瀬を重ねる間柄となっていた。
勢津(せつ)、同所にて磔。
喜右衛門罪状、伊達藩譜代の家来ながら、主の妻、勢津と不義密通の上、主人、飯田(はんだ)能登を殺害し、出奔したる罪。
勢津罪状、主人家来、喜右衛門と密通したのみならず、主人殺害を手助け、出奔したる罪。
頃は宝暦二年(1752)四月八日、仙台藩内桃生郡女川村、飯田能登屋敷。村の鎮守の祭礼の日。
かねてより喜右衛門とお勢津は、主人能登留守の折、逢瀬を重ねる間柄となっていた。
女川口説写本(文化年間)
「♪内裏、女郎もお公家も武士も、恋は誠の道とは定め、高き卑しい上下はなきよ」
「♪茶の間座敷は喜右衛門一人、そこで奥様心を寄せて、茶の間障子をさらりと開けてみれば、恋しき喜右衛門一人」
「♪花を欲しさは限りがないが、梢高くて折られはせまい そこで奥様申さるようは、愚かや喜右衛門、梢高くば登りて折られ」
しかしこの出会いは、酒色に溺れる暴君と、才色兼備の勢津、紅顔の美丈夫、喜右衛門の必然的な成り行きでもあった。
「♪兼ねて能登様深色好きで、みめが良ければ屋敷に上げて、酌をとらせて唄酒盛りよ、内の奥様お勢津と云うて、年は二十二で今咲く花よ、いらぬ花よと振り捨てられて、無念涙で月日を送る」
この日も束の間の逢瀬を楽しんだ二人。喜右衛門いつもの通り廊下を渡り、裏木戸へ。
ところが折り悪しくその日は酔いつぶれた能登と鉢合わせ。
「♪表廊下を忍んで行けば、旦那能登様酒宴に疲れ、表座敷で丸寝をなさる。通る足音うつつに聞いて、誰じゃ、あやしや追いかけられて、しばし戦い勝負は見えぬ、ふすまのかげより薙刀出して、敵二人に能登様一人、旦那無残に戌亥にころび」
おのれ、喜右衛門と、能登脇差し抜いて斬り掛かる。
不義密通は天下の大罪、しかも相手は主の妻。もはやこれまでと喜右衛門。刀を抜いて応戦。
その声を聞いたお勢津、なぎなた抜いて加勢する。やがて能登は斬り伏せられる。
我に帰った喜右衛門、腹を切ろうとするも、勢津の一緒に生き延びましょうの声に、刃こぼれした刀を捨て、能登の重代ものの刀を奪り、手に手をとって逃避行。
二人は追っ手を逃れようとあえて困難な難所、翁倉山を越えて南部領へ逃れる。
着のみ着のままの二人。路銀も不足し、主人の重代もの(刀)やかんざしを売り払い高田へ逃れる。
高田の籐七の世話で釜石の仁助の家の二階に住むことに。
三陸海岸季節は初夏。近所の子供にお勢津は針仕事、喜右衛門は書を教え、夢のようなひと月を過ごしたある日、
売り払った重代ものの刀や、櫛(くし)、かんざしで逃走経路が露見、ついに、仁助宅に踏み込まれる。
喜右衛門最後に一太刀と、刀を抜くも「罪に罪を重ねるでない」の捕吏の声に遂に観念。護送の籠で釜石をあとに、仙台へ。
小野の渡し場を越え、松島を過ぎ利府にかかった頃、役人の粋な計らいで、二人は言葉を交わすことに。
「♪明日は評定 ご詮議なれば 心定めてお答えなされ どうぞ我々のがれぬことよ みれん卑怯な心をもつな 天の戒め 是非なきものよ」
「♪誠仰せは もっともなれど 花のようなる御前の姿 罪に落とすもみな私ゆえ 」
七北田(ななきた)刑場跡 現、八乙女
…閑話休題、今でも仙台の北部七北田の刑場跡の、「於節地蔵」は香華がたえることがないとか。皆さんも一度訪れて見て下さい。
お節地蔵
※この口説(くどき)は、遊芸の人達ではなく、宮城県桃生郡女川地方の民衆が、口伝えで残してきた物語です。
この文章は故 紫桃正隆氏の「なんと喜右衛門」徒然じゃないか」を参考にして書いたものです。


