そもそも読書習慣が無い…
以前勤めていた企業での話ですが、そこのお偉いさん方も長い文章の書類を見るとあからさまに嫌そうな顔をして、内容を読まずにそのまま判をついて右から左に書類をスルー♪
あとから、更に上の方からこの企画を通したやつは誰だ!って事で蓋を開けてみると犯人は目の前にいたという…
大人社会でこれですから。
佐藤はその時心に誓いました。
絶対にこんな大人にはなるまいと…。
(既に20代の大人でしたが…)
先日ブログに挙げていた「証明問題」の件、覚えていますか?
最近では、証明問題ですら全てを書かせず穴埋め方式にして採点の負担を軽くしようという試みがあるようです。
要は国語や英語の英作文における採点の問題点も指摘されていますよね。
採点者によって不公平感が出るなどのトラブルもあるようです。
佐藤はこの問題については、採点者の裁量もあって良いのでは無いかと思うのです。
もちろん、採用する側は適当に採用する事が出来ず大変かもしれません。
部分点だってあって良いじゃ無いですか!と思うわけです。
日本人は「画一的にあるべし」の精神が恐ろしく強いと思う時があります。
これは団体行動をする際には決して悪いことでは無いのです。
しかし精神性の要素を帯びた「表現力」にまで画一的を押し付けるのはいかがなものかと佐藤は思いました。
ある程度の骨格があって作る文章に於いては、それ以上の細かい表現については「個性」なんじゃ無いかと思うのです。
そこを誰か別の人の思考や精神で装飾され、紡がれた言葉で上書きしようとする事は「教育」としてどうなんだろう…と。それはもはやその子の言葉では無いのです。
この解にならない無限ループは、実は佐藤の学生時代からあったモヤモヤです。
確かに、大人には大人らしい表現力があり、それは時に素晴らしいと称賛されるような論文や小説に通ずるので、それ自体は素晴らしいと思うし、気に入った表現が有ればそれを自分に取り入れて、自分の表現を彩る為に紡げば良いと思うのです。
文体が幼稚?もっと掘り下げた表現を?
それを言ってしまうから今の子は自分の言葉で表現出来なくなる原因になったのでは無いかなと佐藤は思いました。
格好つけたいのならそんな表現でも良いんです。自分が知る言葉で表現したら良いのです。
何故なら学生の語彙力とは常に成長と共に進化を繰り返し続けているんです。
だからそのままの、ありのままで自分の言葉で表現出来る様になれば良いんじゃ無いかなと思いました。
それでは人の心を掴める良い文章にならないと思いますか?
「ビジネス」に於いてはそうでしょう。
でも言葉はいつでも心を成長させるものだと佐藤は思います。
形にならない気持ちを表現するのもいつだって言葉なのです。それは自分の「意見」を言える人間に成長させる糧にもなるんです。
日本人が足りないと考えている文章力はみんなそんな環境下で自分の言葉を押し殺して優等生の模範解答だけを答えさせて目上の人たちの自己満足で養われた能力です。
そんな不足不足の連鎖では先細りしていつかきえてしまいそうになりますよね。
ついでに言えば、うつ治療に用いられる「認知療法」とはこの表現出来ない言葉を表現出来る様になる為の練習に似ていると思います。
これは咄嗟の時の恐怖や不安で塗りつぶされた人の思考を整理する時に利用されているものです。
「何があったのか」「その時どんな気持ちだったのか」「相手は本当にそう思っていたのか」「これからどう行動するのか」といった状況整理や解決、又は対処法迄を感情を交えず淡々と行うわけです。
そうすると、意外に自分の発言や行動がこのよくわからない感情に振り回されている事に気付くのです。
更に突き詰めれば、そんな感情になった自分自身を客観的に見る事が出来る様になります。
考える事は決して悪い事ではありませんが、昨今の鬱病になりやすい人はそういう目に見えない感覚を表現する言葉が出ない事で常にモヤモヤを抱えて脳が疲れているのではないかと思います。
佐藤も最初から読解力があったわけではありません。寧ろ言葉の壁により危うく母国語の形成に影響を与えたんじゃ無いかと思える時期があったと思います。ハーフあるある。(後から聞いた話からの推論ですが…)
だから余計に「読む」という行為がとても苦手でした。
そんな佐藤に影響を与えたのが、学生時代の自称「本の虫」という女の子でした。
彼女は佐藤とは対照的で本が無いと「活字病になっちゃう!」というくらい危ない女子でした(笑)
今ならその気持ち、両方とも分かります。
要は「出来ない」事に興味が出ず、食わず嫌いをしていたようなものなんです。
ある時、彼女から「これすごく面白いよ!」と勧められた小説を借りる機会がありました。
今でも覚えています。
「創竜伝」
まるでアニメでも見るかのように読み進めれば進めるほどに面白かったです。
ファンタジー小説の入口でしたね。
そのあとは有栖川有栖シリーズ、サスペンス?推理小説にもハマりました。
そのあとは、近所の図書館へ行って、星新一や赤川次郎、吉本ばなな、宮部みゆき…等々、小説からエッセイ…etc.片っ端から読みました。ハウツー本と言われていたものもありました。
まるでこれまで無かった言葉を取り戻すかのように…。
ライトノベルも一時期好物でしたね。
そうやって佐藤は自称「本の虫」女子に「本の雑食」女子という進化を与えられました。
その傍らで家庭教師をしていましたが、劇的な変化を感じたのは、やはり読書習慣が付いてから…でした。
テスト前の為、偶然フォローする事になった国語の説明が思っていたよりもうまく言葉のチョイスが出来た自分に驚きました。
また、この影響は国語だけでなく、学校の授業で受けていた英語の授業でも、わかりにくいと感じていた訳文がスルリと頭に入り、元々英語の方が得意だったのですがそれでも日本語訳にするのがとても苦労していたものがやりやすくなっていた事に気がつきました。語彙力の不足補充も相まって…。
活字に慣れるというのはそうやって積み上げるものなんだなぁと、過去の自分に説教してやりたいです。
その後紆余曲折あって、社会人になってからも文字に触れない日は無いほどに、常に本を片手に読み漁りました。
今も自宅にある本棚に入る事が出来ない本たちはその成れの果て…です(笑)
今は便利で軽量化されたAmazon unlimitedを愛用中です。この商品が世に出た時からずーっと長く長くお世話になっております。それ以外でも即買い、ポチりと購入してますが…。
そんな佐藤の読書の流儀があります。
本は絶対にケチらず気になったら思い切って買うべし!と。
自分も本の虫女子と良い勝負が出来るくらい危ない大人になったなと思います。
そのうちに自分の思考整理のためのノートを持ち歩き、他所のサイトでブログ更新したりしています。
ここまで長々と書いていて、これが苦にならないというのは相当に進化した結果だなぁと感じています。
思うに、英検でも今は最終問題は自分の意見を英語で書くという問題文がありますが、子供にとっては「英作文が苦手」「何を書いて良いのか分からない」の二重苦になっているようです。
いつぞやの先生が言っていた事を思い出します。
日本人は自分の意見を言わない事が美徳とされているけど、アメリカでは自分の意見を言えない事が恥ずかしい事なんだよ!と。
文化の違いはあるかもしれませんが、相手と討論出来るくらいに意見を言う事はかなり大事な事なんだと思います。
そういえば、ふと昔TVで観た番組で、とあるジャニーズのメンバー3人が、ニューヨークだったか?で外でカセットデッキ(時代と世代がモロバレですw)で音楽をかけながらダンスの練習をしていたそうです。
その時、近くのマンション?の窓から女性が顔を出して、(佐藤のイメージではちょっとファンキーな黒人女性です)「煩いわよ!朝から晩までそんな音楽聞かされる方の身になってよ!」とお叱りを受けたそうです。
しかし他に行く場所もなかった3人は連日同じ場所で練習をしていると、ある日窓からカセットが3人のところへ投げ渡されて、窓からその女性が
「そっちの音楽を聴いて見なさいよ!あんたらのよりよっぽど良いんだから!」と言われて、3人は「アメリカ人カッコイイ」と思ったそうです。
(佐藤の回想は多少の改変はあるかもしれませんが、何となくそんな感じのやりとりをしていた様に当時感じていました)
お互いの意見を主張しつつ(と言ってもこの3人は何も言ってない笑)もお互いの存在を否定しないカッコイイやりとりだなぁと感心していた記憶でした。
(一方的ではあるが…汗)
言われて言い返せない事よりも、反論すべき事が有ればしっかり反論して(もちろん感情からではなく理論的に)イエスノーをはっきり言える国際人になれるような教育が今の日本に必要な教育改革なのかなと佐藤は思います。
そんなわけで、本日の佐藤のリサイタルはここまでですw
長々とここまで読んで頂けた方には感謝致します。