今日は五街道について気になった事があったので、色々調べてみました。
意岐部中学の二年生はテスト範囲になるのでしっかり確認しておくよーにw
大人になったら便利な「世界大百科事典 第2版」https://kotobank.jp/word/五街道-63526より…
江戸時代、江戸を起点とする主要な五つの陸上交通路。東海道・中山道・奥州街道・甲州街道・日光街道をいう。 → 街道
多分気付いた人もいるかと思います。
伊達に丸暗記世代ではないのです。意識していませんでした。
まさに昨日中学2年生に「街道」と「道中」の違いを聞かれました。
早速便利なWikipediaさんに伺います。
五街道(ごかいどう)は、江戸時代の江戸・日本橋を起点に伸びる東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五つを指した陸上幹線道である。1601年(慶長6年)に徳川家康が全国支配のために江戸と各地を結ぶ以下の5つの街道を整備し始め、2代将軍秀忠の代になって基幹街道に定められた。
1601年(慶長6年)、関ヶ原の戦いで覇権を握った徳川家康は、政治支配力を強めるために、道路制度の改革と整備に乗り出し、朱印状によって各宿場に伝馬の常備を義務付け、道幅を広げて宿場を整備し、一里塚を設けるなどの街道の整備を着々と進め、砂利や砂を敷いて路面を固めたり、松並木を植えるなどが行われた[1]。
五街道として定められたのは、徳川幕府(江戸幕府)2代将軍の秀忠の代になってからのことで、1604年(慶長9年)に日本橋を五街道の起点として定め[2]、幕府安泰のために江戸を防衛することを目的として、街道の要所に関所を置いて通行人を取り締まった[1]。秀忠は、政治的・軍事的に重要な五街道を幕府直轄とし、一里(約4 km)ごとに一里塚を築いて、街道沿いに並木を植えることを命じた[3]。街道は、東海道、日光街道(日光道中)、奥州街道(奥州道中)、中山道、甲州街道(甲州道中)の順に整備された。1659年(万治2年)以降は新たに設置された道中奉行の管轄に置かれた。五街道の正式名称が定められたのは1716年(享保元年)である[要出典]。
南北に架けられた日本橋からは南へ、東海道と甲州街道が重複し、現在の警視庁前桜田門交差点から分かれた[4]。日本橋から北へは、奥州街道・日光街道、中山道が重複して伸びて、浅草橋で奥州・日光街道と中山道とに分かれた[4]。奥州街道と日光街道の分岐点はさらに遠く北にあり、宇都宮で分かれた[4]。五街道の第一宿場である品川宿・内藤新宿・板橋宿・千住宿は日本橋から2里(約8 km)以内の所にあり、「江戸四宿(えどしじゅく)」とよばれ江戸の玄関口となった[5]。
1624年(寛永元年)完成。江戸・日本橋から小田原、駿府、浜松、宮、桑名、草津を経て、京都・三条大橋までの五十三次(約490 km)。延長部にあたる京街道 (大坂街道)の4宿も加えて、五十七次ともいった[6]。
日光街道(日光道中)
1636年(寛永13年)頃完成。日本橋から、千住、宇都宮、今市を経て、日光までの二十一次[6]。
奥州街道(奥州道中)
1646年(正保3年)完成。日本橋から宇都宮まで日光街道(重複区間)を経て、宇都宮より陸奥・白河までの二十七次[6]。日本橋から宇都宮までの17宿は日光街道と重複する。函館に至る延長部あり。
1694年(元禄7年)完成。 中仙道とも表記する。日本橋から高崎、下諏訪、木曽路の妻籠を経て、草津までの六十七次。草津、大津の2宿を加えて六十九次ともいった[6]。
甲州街道(甲州道中)
1772年(明和9年)完成。日本橋から、内藤新宿、八王子、甲府を経て、下諏訪で中山道に合流する四十三次[6]。
江戸時代の東海道・日光街道・奥州街道・中山道・甲州街道を合わせた五街道の総延長は、幕末期の五街道の実態調査資料である『宿村大概帳』の集計から379里27町31間(1493.5キロメートル)あったとされる[7]。
はい。Wikipediaさんは両方書いてくれています(笑)
佐藤も色々調べてみましたが、現在は「街道」と呼ばれているが当時はそれぞれを甲州道中、日光道中、奥州道中と呼ばれていたそうで、こっちの方が正式名称だそうです。
このように呼ばれる前の江戸幕府中期迄は、名称が定まらず皆んな混乱していたそうです。
古い資料では街道を「海道」や「カイドウ」などのように書かれているそうです。
海もないのに海道とはコレイカニ⁈
そこで江戸中期の旗本であり、政治家であり、朱子学者であった新井白石は「道中」にするように言ったそうです。
しかし、結局「道中」はなかなか普及せず…
街道、海道でも間違いないのですが、生徒の皆様、面倒くさいとおもうかもしれませんが、せっかく決めてくれていた日光道中、奥州道中、甲州道中と読んで差し上げてくださいね。
ところで、いつ頃から街道と呼ばれ始めたのか…それは、明治政府の交通関係法令で定められた時からだそうです。
別件ですが、土地の登記なんかも今と昔で微妙に違う事があるそうです。
「うちの土地はここからここだから、この枝切りなさいよ!」
隣の奥様がそう言おうものなら、
「うちの土地は先祖代々この枝の先までとなってんのよ!」
とトラブルになる事もしばしばだそうです。
実際どちらが正しい事を言っていると思いますか?
実はどちらも正しいんです。
なんだい?その曖昧なジャッジは‼︎
と仰る方もいるでしょうね。
しかし現実はそうなのです。
泥沼になる前に第三者が入って、新たに区画を整備したりするのですが…。
いい加減だなぁ…と思われる人もいるかと思いますが、佐藤は昔の日本人は寛容なのだと思います。だから名付けられても皆んな適当…(笑)
結論として、
新井くん(友達ではありません)に免じて五街道は、東海道、中山道、甲州道中、日光道中、奥州道中と読んであげてください。
本日の講義はここまででーす。