久宝寺寺内町は、中・南河内の門徒集団を束ねる拠点として、顕証寺を中心に形成・発展した宗教自治都市です(久宝寺御坊顕証寺を参照)。
久宝寺寺内町の表町通りに立ち、東にそびえる高安山・信貴山を望みます。
左(北)側の建物が念佛寺で、右(南)側は寺内町ふれあい館(八尾市まちなみセンター)です(念佛寺と十一面観音菩薩を参照)。
最寄り駅はJR久宝寺駅です。
改札を出て、北側の出口方向へ進むと、大きな案内板が目に入ります。
「天文10年(1541年)頃につくられたまち」
JR久宝寺駅を出て北に進むと、許麻神社(許麻神社を参照)と寺内町南口に着きます。
許麻神社と向かい合うように、許麻橋地蔵尊が建っています。
許麻橋地蔵尊の背後に水路が見えますが、これが寺内町の環濠の痕跡です。
寺院を中心に発展した寺内町は、大名、領主等からの干渉を排して自治を確立した宗教自治都市です。
戦国時代という時代背景もあって、自治の確立には防禦が不可欠となり、水堀や土塁を張り巡らせた集落が形成されました。
八尾街道は、平野で奈良街道(国道25号)から分岐して、久宝寺寺内町、八尾寺内町、八尾(南本町)を通り、老原で再び奈良街道に合流します。
この街道の痕跡が、久宝寺寺内町の西口と東口に残されています。
江戸時代に建立された道標が、今なお往時の地名を保存しているのです。
まず、文政8年(1825年)建立の西口道標
「左 平野 大坂 道」
「左」は南方向を指します。
「右 八尾地蔵 信貴山 道」
「右」は東方向を指します。
「八尾地蔵」とは、常光寺(八尾市本町)のことです。通称・八尾地蔵尊です。
次に、天明元年(1781年)建立の東口道標
「左 大坂 平野 道」
「左」は西方向を指します。
「右 和刕 信貴山 八尾地蔵尊 道」
「右」は南方向を指します。
「和刕(和州)」とは、「わしゅう」と読み、大和国(奈良)の別称です。
東口付近には、卍札の辻地蔵尊と寺井戸跡があります。
馬追町通りには、「まちなみ麟角堂」が建っています。
麟角堂(りんかくどう)とは、久宝寺城主渋川光貞が、堀川屋敷を開放して創設し、武士や村民を教育した八尾で最古の歴史を持つ学問所です。
麟角は麒麟(きりん)の角のことで、中国の歴史書『北史』にある
「学ぶ者は牛毛の如く、成る者は麟角の如し」に由来する言葉です。
「学問を志す者は牛の毛の数と同じくらい大勢いるが、学問を究めることができる者は麒麟の角の数ほどしかいない」という意味です。
誠に含蓄のある言葉です。
寺内町には、江戸時代の町屋も多く残り、歴史的景観を堪能できます。
水路が町の景観に潤いを与えます。
顕証寺の斜め向かいに、発覚寺(ほつがんじ)が建立されています。
発覚寺は、大和(奈良)、植松(八尾)、そして久宝寺へと移転してきた寺のようです。
その境内には、玄甫(げんぽう)師(-1732)建立の経蔵(現・永代堂)があります。
経蔵とは、経典や書物を収蔵する蔵のことです。
発覚寺は中之町通りに面しています。
この通りを西へと進むと、顕証寺の向かいに、寺内町ふれあい館(八尾市まちなみセンター)の南側の入口が見えます。
その敷地内に、「贈従五位 安井道頓 道ト 出生地」の碑が建っています。
右手奥に見える建物は、顕証寺本堂です。
安井氏は、久宝寺の土豪で、17世紀初めに私財を投じ、久宝寺等の村民らと共に、道頓堀の開削に着手したと言われています。
さて、顕証寺の西側に面する広小路を南へ進むと、再び久宝寺寺内町の南口へとたどり着きます。
寺内町の背後には、41階建のツインタワーがそびえ立ち、新旧対照的な景観を眺めいることができます。