教会の過ち その詳しい実例です。 金儲けに励みバチカンで豪奢な暮らし。
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「地球人は科学的に創造された」ラエル著
第一部
第五章 世界の終末
教会の過ち の項
教会の過あやまち
教会の誤りは、人間に罪悪感を抱かせ、また彼らに訳わけ も分からずに祈らせたことです。だから福音書には、そのことが書かれているのです。
「また祈る場合は、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉数が多 ければ、聞き入れられるものと思っている。」『マタイによる福音書』6章7節
そして、福音書の中で警告されているにも関わらず、教会はまた、教会自体 をあまりにも裕福にさせました。
「あなたがたは、自分のために財宝を地に積んではならない。……誰も、ふたりの主人に兼かね仕つか ることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは一方に親しんで、他方を疎うと んじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」『マタイによる福音書』6章19〜24節
他の箇所でも言っています。
「財布の中に、金・銀、または銭ぜに を入れて行くな。旅行のための袋も、二枚目の下着も、靴くつ も、杖つえ も持って行くな。」『マタイによる福音書』10章9・10節
ところが、馬鹿げた規則や、肉断たちの金曜日などと言って、彼らは福音書すらも尊重しないようになっています。
「口に入る物は人を汚けが すことはない。かえって、口から出るものが人を汚す のである。」『マタイによる福音書』15章11節
彼らは単なる人間にすぎず、福音書で「金も、また銀のどちらも」所有する な──余分な下着でさえ、と告げている時にどうして、富とバチカン宮殿の贅沢ぜいたく に耽ふけ ることができるのでしょうか。
どうして彼らは、善なることについて説教することなどできるのでしょうか。
「それから、イエスは弟子でしたちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者 が、天国に入るのは難しいものである」『マタイによる福音書』19章23節
「彼らは、重い荷物を括くくって人の肩に載の せるが、それを動かすために、自分 では、指一本も貸そうとはしない。すべてその行うところは、人に見せるためである。……また宴会の上席、……広場で挨拶あいさつ されること……を好む。
しかし……あなたがたの師は、ただひとりであって、あなたがたは皆、兄弟である。また、地上の誰をも父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち天に在います方である。また、あなたがたは教師と呼ばれて はならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわちキリストである。そ こで、あなたがたのうちで最も偉えら い者は、仕つか える人でなければならない。」『マ タイによる福音書』23章4〜11節
このように、福音書にはすべて書かれています。それなのにどうして教会は、 道徳と生活様式の考え方が異なるというだけで、人々に原罪を背負わすことなどできるのでしょうか。人々が飢う えで死にかけている時に、バチカンで豪奢ごうしゃ な 暮らしをしながら善ぜん なることを口にし、謙虚さを説きながらも招待され名誉と なることを求め、それでどうして自分たちのことを、「神父様」とか「猊下げいか 」「教皇聖下」(訳注:前者は枢機卿すう ききょう の、後者はローマ教皇の尊称)などと呼ばせることが できるのでしょうか。これらのことを、福音書がすべてハッキリと禁止してい るのにですよ。
もし、明日にでもローマ法王が貧民として巡礼の旅に出るというのであれば、 教会は生き返るでしょう。しかし、教会が人々に奉仕するのは、これまでとは 全く違った、人道主義者としての目標を持つものになります。今までは、現代 における証拠として役立てるべき知識を広めることでしたが、その使命は終わ りました。
それでも教会は、不幸な人々を助けるとか、これまで変形されたり、また秘密にされていた記述の真の姿を広めることに貢献して、再び正しい方向に向かうことができます。多くの聖職者たちの中で度量の大きい人は、このようにして満たされるでしょう。
そのためには、バチカンは自らの富をすべて売り払って、開発途上国を資金面で助け、そこへ出かけて行って、自分たちの手で人々の進歩を助けるというふうに、「言うだけ」(訳注:『マタイによる福音書』23章3節)ではなくて模範を示す必要があります。
結婚や、特に葬式のやり方に、その人の財産に応じて様々な形態があるというのは許し難がたいことです。これも教会の、もう1つの過あやま ちです。 しかし、今や時期が到来しました。
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