善悪の決定は、決断者の認知範囲によって異なるが、おのおのの判断が異なることは、矛盾を呼ぶ物ではない。

善悪というのは、無意識に判断される物であり、個人にのみ依存する。そのため、これは相対的にならざるを得ない。また一般的な善悪の判断、また理性による善悪の判断などという物は、既存の倫理を学習した上での物であり、個が自ら発想した物でないから、それは本質的でない。
もし人間が科学に分析され、要素と関係の蓋然性により完全に表されたなら
それはまさに、人間が自然の一部であることが証明されたのであり
そこに人工という概念は自然に内包され、対をなさなくなる。
人間を以下の物として分解する

思考ができ、個の保存を目的とする機構を持つ
あくまで情報の一形態である

以上を満たす機械を作ることができるならばその機械を人間と差別することはできない。
これは、一見倫理的に許されざる結論のように思われる。
しかしこれは論理のうちにその差を見いだせないだけであり
倫理的に問題を起こすのは倫理が論理に依存する物だからで二次的なことである。
また、人間の行動も科学の一部に内包されることは決定的になったとしても
人間の視点は科学だけでないのだから倫理的に問題をもたない。
重要なのは科学というのはあくまで一視点であり視点はほかにもあり感情に由来する物もその一つをなすということである。


人類が機械と同等であることがわかったならば、それは科学の視点と感情の視点を離別させなければならないだろう。それは、人間が欲望と常識すなわち一般的な学習を離別させたことと同様である。


人間の意思は人間の脳に由来する
脳は物質で構成される
物質は自然に統率される
つまり、人間は自由意志など持たず
それと思われるものは自然の統率による
物理変化の二次的な結果として理解される。
科学による記号処理は演算である。
科学は自然に準じ矛盾を生じない。
自然は演算を行う。

人間は自然の一部である。
人間は演算する。
科学は演算する。
科学は人間を演算する。
記号処理は人間を演算する。





演算する人間は思考を持つ。
演算する科学は思考を持つ。
演算する自然は思考を持つ。

自然は膨大な演算の集合である。
自然は膨大な思考の集合である。
自分が他者の境遇にあったならと空想するのは
いかに自身を変革するのが困難なことかを自覚しているからである。
個の存在意義について

生存から
私は明らかに生物であることを知っているため、生物であることが価値があることと同値であると認識したいためにこのような観点から思考を巡らせた。
しかし、最終的には生物学的には個の存在意義などないように思う。
「個は存在に意義にある。」これは、生物が絶滅せずに生き残ることに意義があるとされるとき、多種多様な種類の中の一人間として集団から与えられる価値である。
しかし、そもそも生物が存続することに意義があろうか。
これはかなり不確定である。生物は当然自然の一部であり、自然によって絶滅することもある。ここから自然は数多くの物に並列的な価値を与えていて、互いに複雑な影響を与えているように推測される。しかしながら我々はあくまでその一つにすぎず自然の全体像を鳥瞰できないため不確定となる。
客観的な観点から個の存在意義に言及することはかなり困難である。

意識から
上で述べたように客観的な観点から個の存在意義に言及することが困難である以上、観点を主観に移し、社会を主観の複雑な構造ととらえ思考するべきである。以後の論点として下に二つを明示した。

一、 個の中で寄与され完結される価値。
二、 社会によって寄与される個の価値。




まず価値の寄与はある意識の上で完結されるとする。
また意識とは個を認識することによってうまれるものであり複数あることが自然で階層構造をなすとする。

私の中には今いくともの意識が形成されている。
今、その中で一つに注目したときその意識を第一層としその上部にある意識を第二層と言ったように呼ぶことにする。

第一層;この文章を書くことがいかにも価値があるように思いまたその行為を起こしている自己に価値を見いだす

第二層;いっそうはかなりナルシスッティックな面を持っていることを知る。
しかしながら、考えること自体が価値のあることとして価値があることとして。
二層に価値を与える。

ここで第二層が第一層に価値を寄与せずなぜ自身に価値を寄与したかというと
それは、第二層が第一層より上位にあり第二層は第一層の思考を認知できるし、第二層のうみだした価値はあくまで第二層の思考なしには発生し得なかったからである。
具象化の極限は、そこにあることである。
それに対し抽象化の極限は
すべてに差を見いださない「均一世界」である。

均一世界にはいかなる概念、事象のいっさいは存在しない。