◇必要なものの一切は、既に与えられていると感じるのは感謝の心です。

 必要なものは、まだ十分に与えられていないと感じるのは思いの心(我の心)です。

 感謝の心と思いの心の違いが分かる人は、感謝の心の輝いている人です。

 思いに生きて、業想念の奴隷となっている人には、その区別も何も分からないものです。



◇無限の業想念を積み重ね、その奴隷に陥った人は、渦巻く濁流に翻弄される木の葉のような

 ものです。

もし感謝の心が出てきたとすれば、それは救済の神々様のお蔭なのです。

マイナスの思いは高利の借金で、プラスの思いは低利の借金です。

表面に浮かび上がる思いは氷山の一角で、心の奥深くに過去世に積み重ねた無限の思いが

蓄積されています。

思い通りになって喜んでいても、それは高利の借金を積み重ねているだけです。



◇神様に相対するのは、常に本心の自分でなければなりません。

 本心の自分に相対するということは、感謝だけの心になるということです。

 自分の運命・境遇がどんなものであっても、無限の感謝だけで受けるということです。

 必要なものの一切は既に与えられているのです。

 その中から各自は、自分に必要なだけを自由に受け取って、それを自己の運命として享受して

 いるのです。

 本当に必要なのは、神様が既に与えて下さっている無限の幸せを受けようとすることです。

 自分勝手な選り好みをしたり、不平・不満・不足を言うのは、自分の積み重ねたマイナスの

 思いに気づかず、感謝を忘れているからです。

 思いの心とは、過去を掴んだ我(が)の心のことです。



◇すべてを神様の所有(もの)と思えば、一日の始めに

 『今日一日、神様の御心のままに、この肉体を正しく使わせていただきます。

  お借りしてもよろしいでしょうか?』

 と神様にお伺いし、謙虚に感謝を深めて大事に使わせていただくのです。

 そうすれば感謝は日に日に深まり、本心(感謝の心)は輝いてくるのです。



◇神様への感謝と現実世界での感謝とは雲泥の差があり、自分の思い通り・願い通りになった

 時に「ありがとうございます」と言ったとしても、未だ本当の感謝にはなっていないのです。


 何でも自分の思い通りになることを願い、思い通りになって喜んでいるのは、小さな自己満足の

 喜び、業想念の心の喜びに過ぎないのです。

 本心の心の喜びと比較すれば、それは無に等しいものです。

 神様が与え続けて下さっている無限の幸せを、感謝の心でしっかりと受けとめてこそ、

 本心の喜びになるのです。



◇外が暗闇の時に部屋の中の電気をつけたら、透明なガラスは鏡になって自分の姿が写ります。

 外が明るい昼間に電気をつけても、ガラスに自分の姿は写りません。

 神様は、輝く姿と鏡の姿の両方の働きをしてくれます。

 自分が神様の光の方へ向いた時は、周りが明るく見えて、神様を感じるからガラスは鏡には

 なりません。

 ところが神様に背を向けて、闇の方へ向くとガラスが今の自分の心を写す鏡(我の心をもって

 神様に相対するとき神様は“かみ+が=かがみ”となって現れる)になって環境が出てきます。



◇感謝の心で「ありがとうございます」と唱えている時は周りが輝いて見え、感謝を忘れると、

 自分が神様に背を向けている状態で、その心境に応じて周りにいろんな鏡に写る姿が

 見えてくるのです。

 神社の神様の御神体を鏡にしたのは、「本当の輝きの姿を見て欲しい」という意味と、


 「暗い方へ向いたら、鏡の姿で見せますよ。反省してもう一回神様に向きかえってください」

 という意味があります。



◇自分の心が本当に神様の方へ向いた時に、現実世界での本当の感謝になるのです。

 真の感謝は、神様からの新たな受け直しです。

 朝から晩まで、寝ても醒めても、1日24時間ひたすらに「ありがとうございます」と感謝し続ける

 ことです。



ありがとう!というと・・・

海を泳ぐ魚になれた気がする。


ありがとう!というと・・・

空を飛ぶ鳥になれた気がする。



りがとう!