小雨降る長崎に到着 (日本二十六聖人) | 株式会社ビッグハートインターナショナル

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お天気が良い日には、ぶらっとお散歩からちょっとした旅行記を書いております。

無事予定通り長崎に到着、長崎県観光連盟
総務国際部 海外誘致課のスタッフと合流

小雨降る中、まず最初に訪れたところは「日本二十六聖人殉教地」
この地は、豊臣秀吉のキリスト教禁止令によって捕らえられた6人の外国人
宣教師と日本人信者20人が処刑された場所です。
スペイン人4名、メキシコ人1人、ポルトガル人1名、日本人20名

日本二十六聖人記念碑
$トラストくんのブログ

記念碑の裏には、「長崎の道」として26個のブドウが描かれ
長崎ですり鉢でつぶされ、ぶどう酒(キリストの血)にされる様子が表されている

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殉教事件のあらすじを簡単に書かせていただきます。
1596年、フィリピンからメキシコに向っていたスペイン船「サン・フェリペ号」が
台風で土佐浦戸海岸(高知市)に漂着し、五奉行のひとり増田長盛を浦戸に派遣
莫大な積荷を没収した。
航海士が「スペインはまずキリスト教の宣教師を派遣、信者を増やし
やがては国を征服する」と話していると増田が秀吉に報告
この発言が本当かどうかはわからないが、それを聞いた豊臣秀吉が、
1953年にフィリピン総督の使節として来日していた
スペイン系修道会「フランシスコ会」ペドロ・バブチスタらが京都で公然と布教し
教会を建てたりしていた為、バブチスタら6名と、大坂(現:大阪)でイエスズ会
修道士、パウロ三木ら3名と他キリシタンを捕縛し処刑するように命じた。
処刑を決めた秀吉は、耳と鼻を削ぎ京都の町を引き回せと命じたが、
実際には左耳たぶを切られ3人ずつ荷車に乗り京都の町を引き回された。
キリシタンたちは、信仰のために命を捧げることを喜びとし
笑みをたたえていたそうである。
その後、京都から処刑地である長崎へ送られたのである。
長崎は、禁教令であってもキリシタンの町として栄えていた。
秀吉は、ポルトガルとの貿易のために、宣教師の居住を認め信仰の自由を
黙認していた。だからこそ、長崎に住む人々に秀吉のキリスト教に対する考えを
知らしめるために、処刑地を長崎にしたのである。

1597年2月5日正午、長崎で殉教

1597年5月、フィリピン総督ドン・フランシスコ・テーリヨは、
使者を遣わし宣教師らの処刑・積荷没収に抗議、秀吉は一行らを丁重のもてなし
フランシスコ会士の遺体引渡しに応じた。

二十六聖人の記念碑で、ペドロ・バブチスタとパウロ三木の目線が
他の24名と違ってやや下を向き、記念碑を観る人と視線が合うようになっています。

記念碑の後ろに、記念館があり2階の「栄光の間」には二十六聖人の遺骨が安置
されている。(マニラの聖堂サン・イグナチオから分骨)

フィリッポ教会、
二十六聖人のひとりメキシコ人のフェリペ・デ・ヘススに捧げられた教会

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日本二十六聖人記念館
開館時間:午前9時~午後17時
入館料:一般500円、高・中学生300円、小学生150円
休館日:12月31日~1月2日