タイトルには「お母さんの思い出」と書きましたが、現在の私の年齢があと10日余りで85歳にもなる事から「母親の思い出」と書くべきかと思いますがいまだに私の胸の中では「お母さん」なんですね。

こんな写真も見つかりました。私たちは1卵性の双子でした。第2時世界大戦直後の日本では食糧難や住むところも無く大変な世の中でした。現在のウクライナよりも大変だったと思います。当時は何でも不足していました。この写真は小学校に入学した当時の写真で帽子、セーター、ズボン、カバン、足袋などすべてお母さんが双子の我々に寝る時間も惜しんで手作りしてくれた物です。当時は帽子に付ける記章などはもちろん無かったので金ボタンを代わりに付けてあります。履いている下駄は購入したようですが、足袋は二人分を作ってくれました。このころになると自分がどっちだか見わけが付きます。栄養が不十分だったためでしょうか、私の角膜が濁り始めていました。目がいつも痛かったので頭が傾いています。そうなんです、私は左側ですね。当時のお母さんは自分が食べなくても4人の子供達を優先に食べさせていましたから、かなり痩せていて皮膚は吹き出物がいっぱいでした、栄養の問題だったようです。軍隊(小笠原諸島守備隊)から復員してきた親父は真っ黒に日焼けしていて一見して頑丈の様でしたが、実際は体がむくんでいたのです。内地に引き上げた時に地面にミカンの皮が落ちているのを見て安心したそうです、何故って?まだ食べられるミカンの皮でも捨てられていたからです。お母さんや親父には苦労をかけました。特にお母さんによって今の自分があるのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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