道元禅師や禅にはまって
坐禅したり
書籍読んだり
法話を聞いたりしていたころ
人生死ぬまで修行だ、とか
日々を丁寧に過ごすことの稽古だ、とか
力んでいたのですが
ふと、なんだか、
そういう自己探求みたいなのに疲れてしまったときがありました
そもそも、師匠もなく我流で取り組んで
まったく方向性違いの誤った取り組み方だったと今は思うのですが
その時はその時で
そうやって、何か自分が打ち込んでいるという自己満足というか
はっきり言えば
一種の
中毒性の快楽があったんだと思います
それが飽和したんだと思いますが
どっと疲れて
むしろ
安らぎとか
癒しを
求めたのでした
そんなとき、新聞のある書評で
無人島に持って行く一冊は
歎異抄だ
という記述が目についたのが
親鸞聖人や浄土真宗に
興味を持ったのが始まりでした
道元禅師と同じく
高校の日本史で名前を覚えたくらいの知識でしたが
考えてみると
実家の法事には
近所の真宗のお坊さんが来ていたことを思い出しました
また
新聞の広告欄に
真宗のある一派の
歎異抄についての本が
よく掲載されていて
ベストセラーだと宣伝されてましたので
歎異抄
という名前だけは覚えがありました
だからといって
そのベストセラーは読んだことないのですが
こういった書籍を読み始めました
禅宗の本では
悟りたいと思って坐禅することや
修行するぞと力んで取り組むことが
益々迷いを深める
といったようなことが書いてあったので
自分はどんどん迷いの淵に沈んでいってんだなぁ
助からないなぁ
と思っていたところ
真宗の本では
そうやって
自分は助からない奴だ
業が深いな
と思うことを
決して悪い事のように書いてなかったのが
ちょっとホッとしたことを覚えています
ダメな奴ほど阿弥陀様は救おうとしてくださるのだ
と思えたことも
なにか
癒してもらった気がします

