先に述べたカーネギー「道は開ける」を読み、またそれに先んじて専門的にカウンセラーに指導してもらった認知療法との一つの効果として、

何か心配や不安があった場合には、徹底的に考えるという癖がついたように思う
(認知療法の専門家からは、それは治療が目指す先ではないと言われるかもしれないが)
 
もちろん悩み事がある時には、人は誰でも考えているから悩んでるのであって、「考える」ということは特別なことではないと思う
 
ただ、漫然と考えていると、
・心配事といっても、本当は何に心配しているのか、何が自分を不安にさせているのか
というかことが曖昧なままだったり
 
・その心配事について、以前、例えば昨日に、考えたことをまた繰り返して考えていたり、いわゆる堂々巡りになってたりすると思う
 
僕の場合、
特に、意識しないと、堂々巡りの考え事をしてしまうことが多かった
 
ならばいっそ理詰めでとことん自問自答した方がいいと思った
特に、紙に書き出して、自分を自分で詰めるつもりで自問自答してた
 
例えば、仕事や家族の事で、思い通りにならない又はなりそうにない見通しがあったとして、
それに漠然と嫌だな困ったなと考えている状態が心配や不安だとして、
 
思い通りにならないとどうなるのか、
それは自分にとってどう困ったことになるのか、
と考えを突き詰めていくようになった
ただ、そのままだと、どんどん悪化シナリオで考えてしまうので、
もう一人の自分に、ある程度反駁してもらわないと、
かえって心配の深刻度を自分で増幅してしまいそうだった
 
なので、もう一人の自分に、
出来るだけ現実の事実をもとにいろいろと反駁してもらう
 
その事態推移の見通しや前提想定は偏ってないか、悲観的過ぎないか
仮に事態推移の方向性(ベクトル)についての想定は正しかったとしても、ゼロイチということはないので、グラデーションで考えられないか
何か自分の出来る範疇で手立てはないか、
その何か小さい手立てでも、やらないよりはマシか?
それともそのコストかけるくらいなら放っておくという選択肢はどうか、
ほうっておくと絶対絶命になるか
 
こんなことをやっていることをカウンセラーと話したことがあったのだが
そのカウンセラーからは、
心配性なのか、慎重なリスク管理をやっているのか微妙ですね
と言われた
 
確かに性格としては慎重なほうで、仕事柄も理屈で考えることは多い
なのでこういう対処は自分の性分に合ってるのかもしれない
 
が、いかんせん疲れる
 
こういうことをやっていると、脳みそがギュ~っと縮まって固くなってる印象があった
 
また、最大の問題は、どこまで突き詰めても、不安は残るということ
心配の原因を突き詰めれば、
次にその原因を除去する手立てを思考するが、
その手立てを考えても、それが上手くいくかどうか分からんという次の心配の原因を作ってしまう
 
どこかでこうした思考をストップしないとかえって鬱になると思っ
 
考える時間を区切るというのも一手たった
 
ノートに書き出す分量を何枚と決めておくということもやった
 
一定程度考えたらそこでストップ
 
ここで「腹をくくる」ってことが出来れば、安心立命なんだろうが、なかなかそうはならない
 
そこが自分の弱いところだと自覚することが多かったように思う
 
腹が括れるような人間になりたい
肝の座った人間になりたい
だんだんそう思うようになった
 
やがて、マインドフルネスとか瞑想とか、座禅とか仏教とか、
あるいは、信仰というものに傾倒するようになったのは
こういう取組みのあとだった