前回、カーネギーの第一章と、
道元の「正法眼蔵」有事の巻とを
絡めて書こうと書いたけど、
僕ごときには難題でした(^^;
書き始めてみても、あっちこっち行ったり来たり
まぁそうだよなぁ…迷える50代程度には書けんなぁ…
なので、初めて「正法眼蔵」を解説本にて読んだときに
カーネギーを思いだした話を
道元
(どうげん)
正治2年1月2日(1200年1月19日) - 建長5年8月28日(1253年9月22日)
前後際断せり。
僕のような凡夫が道元を語るのはおこがましい。
微塵も分かってない。
とはいえ、微塵なりとも分かったことも、ほぼ無い。
ならば、ないない尽くしの凡夫なれども、
頭の中でモヤモヤしていることを書き連ねておきたいと思います。
カーネギーは名著「道は開ける」で、
先ず初めに、
いま今日の一日と、過去と未来を断絶せよ
と説いてありました。
その十何年の後に
道元の正法眼蔵の解説本で
現状公案の次の一節を読んだときに
カーネギーを思い出しました
たき木、はひ(灰)となる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。
しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。
しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。
前後ありといへども、前後際断せり。
灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。
薪が燃えて灰になったし、灰は再び薪にはなれないのだから、
薪が先で、その後に灰になった、訳ではない
薪には薪という在り様の中で、後先があり
灰は灰という在り様の中で、後先がある

薪と灰は
前後ありといへども、前後際断せり。
思い返せば悔まれるあの日を、
あーすればよかったと思うかもしれないが、
まだ見ぬ明日について
こうしても大丈夫だろうかと思うかもしれないが、
しかし、今日と昨日、今日と明日は、
際断せり
一日、一日の手元を大切にすることは
道元もカーネギーも同じだ
と、そう考えて読んだのですが、
そのまた後になって、正法眼蔵の有事の巻を読むと
この理解は、はなはだつまみ食いだったと思わされました。
(永平寺)
いはゆる有時は、時すでにこれ有なり。有はみな時なり。
道元の文章は、美文です。
なので、読んでみると、どういう意味か分からないのに、何か分かったような、つかみかけてるような気にさせます。
その気分こそ迷いなのだろうと思いますし、
その程度のことで、自分なりの思いを書き連ねることは危険だと承知しています
いはゆる有時は、時すでにこれ有なり。有はみな時なり。
これも美文で、
時間とは自分の外側で不可抗力的に流れ去るものと
当たり前のように思っていることを揺さぶられて
ハッとします
が、じゃあ、一体何なんだと考えると迷路
ただ、何となく
以前に思った
「一日、一日の手元を大切にすることは道元もカーネギーも同じだ」
というのが、
それだけではないなぁという感じになったんですよね。
カーネギーは、過去と未来とを断絶して、今に集中しろと言うし
道元だって、「而今」というくらい、今この瞬間の大切さを説いていると思うんだけど
有事の巻で書いてある、
時間の捉え方を考えると
そんな簡単に断絶したり裁断したり出来るものではないような気がする。。。
そこを、いっぺん、浅学ながらも考えてみようと思ったけど、まだ上手く表せなかった。
喉の奥の方くらいまで、
何か少しくらいは来てるような気がするけど
言葉となって出てこない
いや、それも気のせいなんだろう
僕くらいの程度では
無理でした
(参考文献)


