自分の認知行動療法(CBT)への取組みを改めて振り返るための投稿を書く際に、

いろいろと文献に接する中で下記の記事は膝を叩いた。

大野裕さんの「認知行動療法」①/「よかった探し」ではない

(神奈川県精神医療人権センター)

大野先生はこの分野の第一人者でおられるが、先生が

「認知行動療法でいう『認知の修正』とは手段であって、目的ではないのです。」

「考え方を無理に変えても、問題が解決しなければつらい気持ちは続きます。」

と仰っておられるところ。

 

そう、そこが自分が自己啓発や問題解決などの本を読み漁るようになった理由かなと思った。

 

同じ記事で、インタビューアー(佐藤光展氏・元読売新聞記者、医療ジャーナリスト)が、

・認知行動療法は、楽観的思考を身に着けるための方法や、ポジティブシンキングとは本質的に違う

・「よかった探し」は適度に行えばよいのでしょうが、度が過ぎると現実逃避になってしまいます。

・認知行動療法は、悩める人々をポリアンナ症候群に至らしめる罠ではありません。

と書いてあるが、本当にそう思う。

 

以前の記事で、「要はモノは考えよう」と書いたが、だからといって、

なんでも良い方向に解釈するクセを付ける、とか

前向きな考え方を身に着ける、とか

そういったことではないと思う。

 

世上いろいろなメディアでCBTの紹介で用いられる事例が、

悲しく辛く思った出来事を振り返って、楽観的な見方に修正するというようなストーリーが多いせいかもしれないが、

いわゆる「ポジティブ・シンキング」と同列に語られる場合も多いように感じる。

 

負の思考のループから抜け出すために、自分が陥っている極端な解釈に対する、もう一つの解釈の選択肢として、敢えて真逆の楽観的な解釈を示しているだけで、あくまで着地点は中庸・中道な思考なのではなかろうか。

 

 

いや、着地点が重要ということではなく、自分の思考・認識を批判的に検討するというプロセスが重要な気がする。

そして自分の認識や思考が偏っているという気づきを得ること。

そうやって、ニュートラルな認識まで戻すこと。

 

であるとすれば、それは問題解決へのスタート地点に過ぎない。

 

(しかし、「過ぎない」といっても、このスタート点に正しく立っていないことが自分には往々にしてあるのだから、これは重要な進歩だと思うし、CBTの有用性を些かでも軽視するものではない)

 

CBTに限らず、精神療法はどれもそうだと思うが、その宣伝文句として、

「気分スッキリ」

「前向きにはつらつ」

は言い過ぎのように思う。

 

過剰に悲観的になっている思考・認識をニュートラルに戻すことへの動機づけの方便ではあっても、

本当に「スッキリ」にはならないし、

また、仮に「スッキリ」してしまっては、

過剰なポジティブシンキングの陥穽にはまっているのかもしれない。

 

どこかネットの記事にかいてあったが、

白黒はっきりつけようとしている自分に

「グラデーションのあるグレー」

という領域を再認識させるプロセスがCBTの役割のように思う。

 

それが不十分ということではなくて、

それが正しい世界の理解の仕方というものだろう。

 

CBTの効果に物足りなさを感じる向きの声は、こうした、ある種「期待された正しい効果」を体感しているが、取り組んだ動機に基づく事前の期待が、CBTの本来の役割を超えたものであったということかもしれない。

 

必ずしも自分がそういうことを意識的に認識していたという訳ではないが、

問題解決のためには、CBTとはまた違ったメソッドが必要と感じていたので、

本屋で思考方法や自己啓発などの本を求めたのだろうと、

今になって思う。