音楽は表現自由である。好き嫌いや選り好みはあれど、評論家気取りで上手いか下手かを評価する資格や権利は誰にもないと思っていた。
だから、仕事中に偶然知り合ったギタリストに不信感を覚えた。音楽という自由表現者でありながら、彼はしきりにとある有名なイギリスのバンドの神様を崇拝しながら、彼らが全てであり起源であり今存在する音楽の総てはそれらの模倣にすぎないと、ギター初心者の私に教祖のように説き、履修するよう強く薦めた。
そしてあろうことか、私の推しのいるバンドのベーシストを「下手だ」と笑い、グループ全体を「昔はいい曲が書けたけど、今はいい曲もヒット曲も作れない」「まともに弾けるのは○○(推し)くらい」と、馬鹿にした。
「(バンド名)の何が弾きたいの?」と、彼は次々に彼らの曲名を口にした。それらはどれも代表的なヒット曲たちで、その中にはカップリング曲だったりアルバムに収録されていたりする、推し作曲の曲はひとつもなかった。
カチンときたから、「あー、もっと古い曲です」と、笑って答えた。どうせ「Two Bell Silenceです」なんて言ったところで知らないだろう。それとも皮肉を込めて、「Cynicalです」とでも、返してやればよかったのだろうか。
案の定、彼の口からグロリアス以前の曲名が出てくることはなかった。
すると次に、彼は目の前で得意気にギターを弾いて見せた。恐らく、イギリスのバンドの神様の曲だ。世代ではない私でも耳にしたことがあるほど有名な曲だった。
彼は確かに、確かに上手かった。
まさに“継続は力なり”なのだろう。
アンティーク調のアンプから流れるメロディはやけに自信に満ち溢れていて力強く、それでいて余裕がありとても魅力的だった。しかし同時に、例え上手く楽器を弾きこなせても、自分の価値観や知識だけで、ましてやそのバンドを好きだと言う人間の前でマウントを取るような人間にはなりたくないと心底思った。
彼はうんちくや自論を鼻高々と語っておきながら、「昔はいい曲が書けた」などと、言いながら、インディーズ時代にあんなに素晴らしいツインギターのハモリを産んでいた彼らを、中毒性の高い楽曲たちを知らないのだ。
音楽は、自由だ。
私がよく聴くキャラソンやドルソンだって、打ち込みだろうが単調だろうが誰にも馬鹿にする権利はない。それは音楽に限らず、相手が好きだと言うものを無意識に貶すような人間にはなりたくない。
私はギターを弾きこなせるようになったとしても(そんなのいつ来るか分からないけど)、この気持ちを考えを大切にしていきたい。