「日本におけるキリスト教 104 キリストを信じる者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受けるという教えについて」
おそらく多くの人が人間関係において、最も嫌いなタイプの1つがこのタイプでしょう。
自分は良くて、他人はダメ(自分にすごく甘くて、他人にすごく厳しい)というタイプです。
なぜなら、そういうタイプは、自分を自己中心的に愛して、他人を愛していないということの証明にもなるからです。
こういうタイプの社長や上司の会社に就職したら最悪です。辞めることを考えるでしょう。
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今度は、聖書の教えを見ていきます。
「そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。
第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。(マタイによる福音書22章35~40節)」
なので、クリスチャンになれば、自分は良くて、他人はダメという思考を捨て去ります。
また、聖書の教えも「隣人を自分のように愛しなさい。」という教えによって解釈していきます。
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それでは、次の御言葉の聖書解釈と福音理解を見ていきます。
「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。
それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。
信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。
一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。
主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕マルコによる福音書16章14~20節」
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ここで大きな問題になるのが、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」という教えです。
これでは、「隣人を自分のように愛しなさい。」という教えと二律背反のようになってしまいます。
しかし、この聖書箇所もこれまでのように、イエスさまは誰に教えているのか明確にされているので、詳しく解釈していくと、決して二律背反の教えではないので安心します。
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この聖書箇所は、イエスさまが復活されている時期の、十一人の弟子に対して教えられました。
そして、イエス・キリストを信じる者は「しるし」が伴うことが最も重要です。
「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。
主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。
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つまり、十一弟子たちの宣教は、イエスの御名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。という「しるし」が伴う宣教でした。
そして、イエス・キリストを信じていない人々は、その「しるし」によって、十一弟子たちの語る言葉が真実であると知って、イエス・キリストを信じたのです。
「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」と聖書に書かれている通りです。
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さて、現在のイエス・キリストを信じたクリスチャンたちは、どうでしょう?
その「しるし」が伴っているでしょうか?
この聖書箇所で言えば、伴うしるしがなければ、クリスチャンたちが語る言葉が真実であるか、わからないはずです。
それにも関わらず、イエス・キリストをまだ信じていない隣人に対して、この聖書箇所の一部分「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」だけを教えているとすれば、アンフェアすぎるでしょう。
非常に悪質な話になります。
そもそも、伴うしるしがなければ、イエス・キリストを信じていない人ということになります。
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また、こういう話をすれば、「私たちの教会では、たくさんの『しるし』が行われています!私たちには『しるし』が伴っていますよ!」と自信満々に断言する牧師や牧師婦人、宣教師、伝道師、クリスチャンたちが少なくありません。
そして、誰かの末期がんが癒されたとか、いくつかの奇蹟が行われたとか言いますが、そういう話は、他の宗教や神さまを信じない人々にも起こっている同じ程度の話です。
聖書の弟子たちに伴うしるしは、多くの群衆がイエス・キリストを信じたり、人々が尊敬したり、その町に喜びが起こるほどのものです。
まったくレベルが違うと思います。
次回はその事について、また十一弟子たちだけに伴うしるしについて、そして「伴うしるし」がなければ、クリスチャンと言えないのでしょうか?
本当に信じない者は滅びの宣告を受けるのでしょうか?
聖書の教えを詳しく見ていくと安心することになります。