現代&死後についての福音 ③ 地獄行きの教え | ルーク4のブログ

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神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

「死後についての福音 ③」

 

カトリック教会の福音の前に、地獄についての聖書箇所を先に伝えておいたほうがよいと思いましたので、地獄の教えをします。

 

① まず、新約聖書の初めのマタイ書の5章に「地獄行き」の話が出てきます。

 

その箇所を見ていきますと、「こうしてガラリヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大勢の群衆がイエスにつき従った。

 

この群衆を見て、イエスは山に登り、お座りになると、弟子たちが御元に来た。

(つまり、その場所には、イエスにつき従って来た群衆と、弟子たちだけがいました。なので、イエスさまはクリスチャンたちに教えられることです。)

 

そこでイエスさまは、つき従って来た大勢のイエスさまを信じてつき従う人たちと弟子たちに、衝撃的なことを教えられました。

「私はあなた方に言います。兄弟に向かって『能無し』というような者は最高会議に引き渡されます。また『バカ者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。マタイ5:22」

 

「わたしはあなた方に言います。誰でも情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。

からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。マタイ5:27~30」

 

 

福音派の教会に所属していた時は、「イエス・キリストを信じたクリスチャンは永遠の命が与えられて天国に行く。イエス・キリストを信じない人たちは地獄に行く」と教えられていました。

 

なので、地獄行きについての教えは未信者に教えているという先入観がありました。

 

ですが、福音派から離れた立場で聖書を字義どおりに解釈すると、イエスにつき従って来た群衆と弟子たちに対して「わたしはあなた方に言います。」と地獄へ行くことについて教えています。

 

「信じる前は」とか「わたしを信じない者たちは」ではなく、「あなた方」なのです。

 

さらに聖書を読んで行きます。

 

マタイ18章1節からです。マルコ9章33と合わせてみますと、「カペナウムに着いた。イエスは家に入った後、弟子たちに質問された。

 

しかし、わたしを信じるこの小さい者たちの一人にでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。

 

もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足で命に入るほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。マタイ18:1~8」

 

この教えも家の中にはイエスさまと小さな子ども一人と12弟子しかいませんでした。小さな子どもは理解できません。

 

なので、聖書を字義通りに解釈すると、12弟子たちに対して、この小さい者たちの一人にでもつまずきを与える者は永遠の火に投げ入れられることになると言われているのです。

 

 

② ルカ17章19~25「金持ちとラザロのたとえ」

 

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

 

ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。

 

さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

 

その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、遥か彼方に見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。

 

彼は叫んで言った『父アブラハム様。私をあわれんでください。

 

私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』

 

アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。お前は生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。

 

しかし、今ここで彼は慰められ、お前は苦しみもだえているのです。』」

 

この聖書箇所を字義通りに読めば、ラザロは金持ちにより頼んでいる未信者です。

 

なぜなら、未信者は金持ちにより頼みますが、神により頼む貧しい人たちは金持ちにはより頼むようなことはしないからです。

 

旧約聖書に預言されている「ダビデの子(メシヤ)」を待ち望み、より頼んでいます。

 

それゆえ、神を信じている貧乏人は、死後にもがき苦しむことになる悪い者にはより頼みません。

「主は貧しい人の魂を悪事を謀る者の手から助け出される。エレミヤ20:13」

 

ですから、神を信じている貧乏人であれば「この貧乏人は、日々、ダビデの子が助けてくれることを信じて叫んでいた。」という紹介になるでしょう。

 

盲人バルテマイがそうですね。

 

そして、この金持ちは死後にハデスでもがき苦しんでいます。

 

そのことは、「ソドムの罪はこれである。高慢で食物に飽き、安閑と暮らしながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかったことである。エゼキエル書16:49」が思い起こされます。

 

ですから死後に炎の中でもがき苦しんでいる理由を「お前は生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。」と明確に教えられています。

 

 

③ 黙示録20章15節

「いのちの書に名の記されていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」

 

この事について、明確に詳細が教えられています。

 

「地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書き記されていない者はみな、彼を拝むようになる。黙示録13章8節」

 

つまり、黙示録の時代に、サタンの三位一体のようなことが起こり、竜と二匹の獣が登場します。

 

地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の記されていない者は皆、獣を拝むので、最後の審判で火の池に投げ込まれるのです。

 

そして、「イエスの証と神の言葉とのゆえに首をはねられた人たちと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されずに殉教した人たちが生き返って、キリストと共に千年の間、王となり治めます。黙示録20章4節」

 

 

しかしながら、この黙示録は、主イエス・キリストが教えられている主の来臨の世界とはまるで違うので、無教会の矢内原忠雄先生たちの解釈はヨハネさん(使徒ヨハネではないという先生も多数います)の幻想であると教えています。

 

黙示録では、主の来臨の時は、神の子(クリスチャン)は一人もいません。

 

皆、首をはねられているか、殉教しています。主が来臨されて、生き返えらせてくださり、千年の間を主イエス・キリストと共に治めると明確に教えられています。

 

 

主イエス・キリストが教えられている主の来臨の時は、マタイ24章32~44、ルカ17章22~37にイエスさま御自身が具体的に教えられています。

 

その主の来臨の日は、ノアの日に起こったことと同様です。

 

人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたり、めとったり、嫁いだりしていました。

 

その時、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

そのことの詳細をパウロは第一テサロニケ4章13~18で教えています。

 

「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天からくだって来られます。

 

それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らと一緒に雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。」

 

どこにもサタンの三位一体のような、竜と二匹の獣のことなど書かれていません。

 

そして、それからの事がマタイ25章31~45節に詳細に教えられています。

 

「羊飼いが羊と山羊とを分けるように、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

 

右にいる者たちに言います。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、世の初めから、あなた方のために備えられた御国を継ぎなさい。

 

あなた方はわたしが空腹な時に食べる物を与え、渇いている時に飲ませ、旅人であった時に宿を貸し、裸の時に着る物を

与え、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからです。」

 

すると正しい人たちは答えて言います。「主よいつ、私たちはそのような事をしましたか?」

 

「まことにあなた方に告げます。あなた方が、これらのわたしの兄弟たち、最も小さき者たちの一人にしたのは、わたしにしたのです。」

 

それから、左の者たちに言います。「お前たちが、この最も小さき者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのです。」

「こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人は永遠の命に入るのです。」

 

 

このように聖書の地獄行きについての教えを見ていくと、イエス・キリストを信じない人たちや他宗教を信じる人たちが地獄に行くというような教えは、どこにも書いていません。

 

イエスさまはイエスにつき従って来た群衆や12弟子に対して、地獄行きの話をされた理由についても、その中に悪魔の子(毒麦)がいるので、その悪魔の子(毒麦)たちが地獄に行かないように、地獄行きの話をされたと解釈ができます。

 

悪魔の子(毒麦)たちは、イエス(光)と兄弟を憎み、最も小さき者の一人にでも助けることをせず、小さき子どもたちをつまずかせ、女性に情欲を抱き、バカ者などと酷い言葉で傷つけても平然とし、それらの罪を悔い改めることがなく、やみを愛している者たちでしょう。

 

これで、ようやく、次はカトリック教会の福音について書けます。

 

 

なぜならカトリック教会の福音「無名のキリスト者」について、この地獄行きの聖書箇所を理解していないと、わかりにくいからです。