今日、ブログの運営局からこれまでとは違うメッセージがきて、何事かと思って見てみるとすごいことがあり、びっくりしました。さすが福山雅治さん!でした。
さて、無料動画GYAOでドラマ「ガリレオ」が放映されていたので、全部見ましたが、ものすごく大切なことに気づきました。
「論理的か非論理的か」です。福山雅治さん演じる物理学者は「論理的思考」を使いこなし、「非論理的」なことは相手にしません。
例外に、人を憐れんで希望を与える場合は、非論理的なことでも受け入れてあげるのです。
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聖書もそうです。無教会の内村鑑三先生や矢内原忠雄先生は論理的思考を使いこなして聖書解釈をされていることに気づきました。
そして、非論理的な聖書解釈をする人たちは相手にせず、人を憐れんで希望を与える場合は、非論理的に思えても信じています。
言うまでもなく、イエス・キリストの死と復活は確信しています。
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論理的思考力は、2つの事柄のつながり(関係性)を正しく認識する能力です。
論理的に話す(書く)ということは、つながりを明確にし、論証を過不足なく行うということです。
「論理的」というのは、筋道が合っている。納得が出来るものです。
その反対に筋道が合っていない。納得することが出来ないというものが「非論理的」です。
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新約聖書の4福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)は、旧約聖書に預言されていたメシア(救世主)のイエス・キリストが預言通りに地上に来られたことの話です。
舞台はイスラエルです。イスラエルの民はアブラハムの民であり、旧約聖書に預言されていたメシアを信じて待ち望んでいました。
メシアはダビデの子孫から出ると、第二サムエル7章、第一歴代誌17章、エレミヤ23章に書かれているので「ダビデの子」とも言われています。
4福音書には、イエス・キリストが旧約聖書に書かれてある預言通りのメシアであり、イザヤ35章などに書かれてあることを地上で成し遂げられ、様々な地方の大勢の人たちがイエス・キリストを信じたことが詳細に書かれています。
ダニエル書9章に預言されている通り、イエス・キリストは第二神殿が破壊される前に来られて、62週のあと(紀元32(30)年)に不当に断たれました。
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イスラエルの民は、ダビデの子孫であるメシア(救世主)が来られることを確信して信じていました。
ですから、イエス・キリストがイスラエルに来られた時、イスラエルの民に対して、
「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は、神のひとり子の御名を信じなかったので、すでに裁かれている。ヨハネ3:18」
「御子を信じる者は永遠の命をもつが、御子に聞き従わない者は、命を見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。ヨハネ3:36」
このように教えられても、実に論理的です。
また、使徒ペテロが、イスラエルのエルサレムに集まったイスラエルの民の指導者たちと長老の方々に対して、
「この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。使徒4:8~12」と言い放っても、実に論理的なのです。
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これが、もし、日本で、日本人に対して「御子イエス・キリストを信じない者は、神の怒りがその上にとどまる。」
「イエス・キリスト以外に救いはありません!」などと言えば、実に非論理的です。
なぜなら、日本在住の日本人は、聖書に書かれてあるイスラエルの民とはまるで違います。
聖書の話を誰かに教えてもらわない限りは、
旧約聖書の教えも知りませんし、イスラエルの神がモーセの民(イスラエルの民)をエジプトから救い出し、イスラエル(約束の地)に導いたということも知りませんし、その時代の日本とは、つながりもありません。
アブラハムやダビデもまるで知らないし、イスラエルに来られるメシア(救世主)の話なんて聞いたこともなく、まったく信じていませんし、待ち望んでもいません。
そういう話を聞いたとしても、日本と何の関係があり、何のつながりがあるのか?さっぱりわからない。と思うでしょう。
なので「聖書にこう書いてある!だからイエス・キリストを信じないと神は怒っている!地獄に行く」と言われても、実に非論理的です。
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今、日本中を騒がせている「統一教会(世界平和統一家庭連合)」は、世の中では「キリスト教」になっています。
聖書に書かれているメシア(救世主)である文鮮明(自称イエス・キリスト)を信じて聞き従う人は救われるが、信じない人たちは地獄へ行くという教えですが、
まったく非論理的です。
「オウム真理教」もそうでした。
オウム真理教の信者だけはハルマゲドン(人類滅亡)から救われるが、世の中の人たちは地獄へ行くという教えでした。
これも、まったく非論理的です。
しかしながら、非論理的であっても信じる人たちは必ず起こされるものです。
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危険なカルトと言われる宗教の特徴は、その「神・教祖」を信じれば救われるが、信じない者たちは地獄へ行くという独善的で排他的な、実に非論理的な教えです。
ドラマ「ガリレオ」で福山雅治さん演じる物理学者「湯川学」は、そのような独善的で排他的な自己満足の「非論理的な教え」と徹底的に戦います。
それは逆恨みをかい、攻撃されたりしますが、論理的思考で打ち破り勝利します。
それは、危険なカルト宗教の誘惑から守られる秘訣にもなると思いました。
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さて、聖書を見れば、使徒たちは人々に対して「イエス・キリストを信じれば永遠の命を得て(天国に行く)、信じなければ永遠の滅び(地獄へ行く)」というような、独善的で排他的な非論理的の福音宣教ではありませんでした。
使徒パウロは、異邦人に福音を伝えることが使命で、ギリシャに福音宣教に行きました。
偶像で満ちているアテネでは、論理的に論じ合いました。
それで、アテネの人たちがパウロが論じる宗教を知りたいと願いました。
それゆえ、パウロは「キリスト教」について教えたのですが、死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、他の者たちは「この事については、またいつか聞くことにしよう」と言った。
こうしてパウロは彼らの中から出て行った。
しかし、彼に聞き従って信仰に入った人たちもいた。使徒17:16~34
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パウロはギリシャで福音宣教をしましたが、その中でアテネは失敗したと言われています。
ギリシャのフィリピ、テサロニケ、コリントでは教会が誕生して、その教会宛てに手紙を送ったことが、新約聖書にあります。
アテネは、信者はとても少なく、第二世紀に入っても、アテネに教会があるのかは、わからなかったそうです。
パウロの第三回福音宣教旅行でもアテネに立ち寄ったという記録はありません。
偶像で満ちて、キリスト教について教えてもらっても、信じる人は非常に少ないというのは、日本と共通しています。
なので、聖書に書かれていることで判断すれば、論理的に論じる福音宣教を行なっても、アテネのように信じる人が非常に少なくてもよい。
聖書に書かれている通りということになります。
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ただアテネと大きく違う点は「死者の復活」について、日本人は希望を持っているということです。
2011年に起きてしまった「東日本大震災」では、死者・行方不明者が1万8千人余です。
そのことについて「魂でもいいから、そばにいて」という霊体験の本が出版されています。
「津波で逝った愛娘の魂は、三年後、母のもとに戻った」
「亡き兄からの〈ありがとう〉」
「津波で逝った夫から〈ただいま〉」
未曽有の大震災で、最愛の人を喪った絶望の淵で、死者の魂と再会して、希望を与えられている人たちがいるのです。
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この霊体験は非論理的ではありますが、聖書の教えでは実に論理的になります。
死んで終わりじゃない「死者の復活」のことや幻を見ることが明確に書かれているからです。
また、人を憐れんで希望を与える非論理的なことは、信じてあげることが、日本人が持っている愛と言えるでしょう。
ですから、パウロの「死者の復活」の話は、希望を与えるものになるのです。
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ところが、東日本大震災の被災地では、海外の福音派の牧師や宣教師、伝道師たちが次々とやって来て
「この大震災は神のさばきです。日本は神にさばかれたのです。ある日突然に大勢の人たちが亡くなったのです。
イエス・キリストを信じないで亡くなれば、どこへ行くでしょう。地獄です。多くの人たちが地獄に行ったのです。
ですから、皆さん、どうか真理・道・命であるイエス・キリストを信じてください!地獄には行かないでください!」という福音宣教が行われたそうです。
被災地の福音派の教会の牧師は「その福音宣教は正しい。それを伝えないといけない。でも、同じ被災者の立場では、そんな事は言えない」と葛藤していました。
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話は元に戻し、アテネは現在どうなったかと言えば、キリスト教に一変しています。
パウロがあざ笑われて、虚しく立ち去った場所は、「使徒パウロ通り」と命名されています。
ギリシャはキリスト教国家となり、アテネはその首都です。
テサロニケ、コリント、フィリピよりも祝福されています。
ギリシャは、キリスト教の一大宗派である「正教」なのです。
それゆえ、ギリシャの神々など崇拝する人はいないそうです。
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パウロは神が人々を頑なにして信じないようにされても、その後で信じるようにされるという信仰でした。
その信仰通りになったのです。
もちろん、頑なになって信じずに亡くなった人たちが地獄へ行くとは思っていません。
神が愛をもって、その人々たちに働いてくださると信じていました。
ですから、私たちも論理的思考であり、人を憐れみ希望を与える死者の復活を信じています。
そして、危険なカルト宗教の、独善的で排他的な非論理的で、恐怖を与える教えを信じない。
これからも、その事を伝えて行くことは、内村鑑三先生が万人救済希望の福音宣教を伝える時に、実に容易い、実に楽しい。と言われていることが思い起こされます。
危険なカルト宗教の非論理的な教えに対して、ドラマ「ガリレオ」の主人公のように、論理的思考で勝利して、だまされないことは、実におもしろい。