福音派と無教会の決定的な違い ④ この世を愛することについて & 賛美 御言葉の歌 | ルーク4のブログ

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神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

「福音派と無教会の決定的な違い ④ この世を愛することについて & 御言葉の歌」

 

福音派にいた頃、「聖書の御言葉はすべて神の霊感によって書かれた無謬」ということで、クリスチャンであることが苦痛でした。

なぜなら、「この世」について厳しい教えが、いくつも書かれているからです。それは次のような御言葉です。

 

 

「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。

もし誰でも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。第一ヨハネ2:15」

 

「神に背いた者たち。世の友となることが、神の敵になることだとは知らないのか。

世の友になりたいと願う人は誰でも、神の敵となるのです。ヤコブ4:4」

 

「私は、神のあわれみのゆえに、あなた方にお願いします。

あなた方の体を、神に受け入れられる聖い生きた供え物として捧げなさい。

 

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神の御心とは何か、すなわち何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって、自分を変えなさい。ローマ12:1~2」

 

「わたしが、この世のものではないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖め別ってください。ヨハネ17:16~17」

 

「私たちが、主イエスによって、どんな命令をあなた方に授けたかを、あなた方は知っています。

神の御心は、あなた方が聖くなることです。第一テサロニケ4:2~3」

 

「不信者と、つり合わぬくびきを一緒につけてはいけません。」

 

「信者と不信者とに、何の関わりがあるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。第二コリント6:14~16」

 

 

これらの御言葉を受け入れるのがクリスチャンですが、正直、受け入れるのが苦痛でした。

なぜなら、この世とこの世にあるものを愛しているからです。

 

クリスチャンは生ける神の宮なので、聖く正しく美しく生きることが、神の御心だということは理解できます。

 

ですが、現実に生きていればそうはいかない。カトリックの修道院に入るなら別ですが、この世に生きて、働いて、生活していれば無理な話です。

 

 

個人的なことで言えば、最近、ボクシングの井上尚弥選手とドネア選手の試合を楽しみに見ましたし、友達とプロ野球の話をよくします。

 

また、テニスチームに入れてもらい、毎日、公園で個人で練習しています。子供たちが側で野球やサッカーをしていて、こないだサッカーボールを蹴ったら「すごい!」と褒められました。

 

音楽制作の仕事では、古い50年代からの音楽を勉強しますし、今の音楽もチェックしています。

 

昔の懐かしいドラマが再放送されているので、田村正和さんの古畑任三郎とか録画して見ています。

無料動画GYAO!の木村拓哉さんの「木村さーん」も楽しみで、こないだはCDをレコードに変えることをしていて、レコードの生の音源に感動していました。

 

福山雅治さんのYouTubeも面白いんですね。Bzの稲葉さんとの対談は親しみを感じました。

NHK紅白では、綾瀬はるかさんが福山雅治さんのモノマネをして受けました。綾瀬さんの天然が超おもしろくて好きです。

 

お笑いも好きなんですよ。最近YouTubeで、ダウンタウンさんと丹波哲郎さんのトークを見て、びっくりするほど面白かったです。

 

 

このような感じで、この世のものとこの世の人たちが大好きで、そのことにも時間が費やされることが多い日もあります。

 

しかし、福音派にいた頃は、前述の御言葉が心に刺す感じで、罪悪感がありました。

 

福音派の教会の牧師や伝道師もスポーツやテレビを見る人が多いので、そんな事は気にしないでいいと言われます。

 

けれど、クリスチャンになれば、一日の過ごし方は、イエスさまとの時間、祈り、礼拝、賛美、聖書朗読、伝道の時間を持たなければならないと思います。

 

どうしても「聖書のみ」「無謬の聖書」「聖書にこう書いてある」という教えが、強迫観念のようになってしまうのです。

 

 

現在は、無教会の教えを学んでいて、解放されつつあります。

聖書の御言葉の解釈の違いと、前回記事の二刀流の信仰ですね。

 

無教会の教えは個人の思いを尊重することが第一という感じがします。

 

サザエさんの著者「長谷川町子」先生が「素晴らしい」と絶賛された、無教会の「矢内原忠雄」先生は、聖書に書かれていることに否定的な人たちの意見も聞き入れます。

 

「キリスト教の教えは迷信だ」と言われると、「なるほど、近世自然科学の発達によって、人間の理性が磨かれ、人々の考え方が合理的になって来たことは、否定することが出来ない。」というように。

 

これが福音派であれば「聖書に書かれていることは、すべて正しい。この世の考えは間違っている」ということを首尾貫徹する感じです。

 

長谷川先生が子供の頃、母親は「聖公会」の信者で、家族で聖公会に行っていました。

 

日本聖公会中部教区の「西原廉太」司祭は、聖公会の特徴は「公共性」を大切にする教会です。

 

また、福音派のように「聖書のみ」ではなく、「私たちは真理を知っています」とは言わないので、福音派の牧師から「中途半端」などと揶揄されているそうです。

 

 

聖公会の教会に通っていた長谷川先生が、福音派の教会に行くハメになり、泣く泣く通っていたというのは、福音派の「聖書にこう書いてある」という教えが苦手だったということも一つの要因だと思いました。

 

 

長谷川先生は、妹の長谷川洋子さんに「家庭漫画って清く、正しく、つつましく、を要求されるでしょう。だけど、それって私の本性じゃないのよね。

 

だから、『いじわるばあさん』のほうが気楽に描けるのよ。私の地のままでいいんだもの。」とよく言っていたそうです。

 

長谷川先生をよく知る人たちは、長谷川先生は、サザエさんといじわるばあさんを足して二で割ったような人柄と言われます。

 

それでいて、漫画家で放送タレントの「加藤芳郎」氏から「町子さんは敬虔なクリスチャンで、真面目で几帳面な人だった。」と評価されています。

 

 

長谷川先生は無教会の教えが合っていました。

 

クリスチャンは聖く、正しく、美しくというものではない。私の本性はいじわるである。

その本性を描いたという「いじわるばあさん」

 

福音派の教会の牧師やクリスチャンたちが見れば「なんじゃ、これは」と批判非難するような著書ですが、世の中の人たちは喜びました。

 

 

聖書にもダビデとパウロが、汚い本性を赤裸々に語っています。

 

ダビデは詩編の中でこのような本性も言いました。

 

「あなたに逆らう者を災いにあわせて滅ぼしてください」

「激しい憎しみをもって、彼らを憎み、彼らを私の敵とします。」

 

パウロは「私のうちには、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。」

「私は自分の望む善は行なわず、望まない悪を行っている、私の中に住んでいる罪なのです。」などとローマ7章で嘆いています。

 

 

長谷川先生が「私の本性はいじわるなの」ということを現わした著書「いじわるばあさん」は世の中に広まりました。

 

それでも「クリスチャンは敬虔で、真面目ですね」という評価になりました。

 

神さまも世の中の人たちも「正直」「真っ直ぐな心」を評価しています。

 

無教会の聖書解釈では、その人の本性が、この世のものが大好きであれば、

「正直」「真っ直ぐな心」で、神さまに「私はこの世のものが大好きです」と言える関係でよいのです。

 

そう教えられると、神さまを求める時間が増えるものです。

 

私自身も、無教会をメインに、カトリック、日本基督教団、聖公会の信仰や聖書解釈を学んでいる時間が大好きになりました。

 

 

「愛」とは「そこで、わたしはあなた方に最高の道を教えます。

 

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、やかましいシンバル

たとえ、預言する賜物をもち、あらゆる神秘と知識に通じていても、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無にひとしい。

 

全財産を貧しい人のために使い尽くしても、わが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、何の益もない。

 

愛は忍耐強い。愛は情け深い。愛は自慢せず、高ぶらない。

 

礼儀に反せず、自分の利益を求めず、いらだたず、怒らない、恨みを抱かない。

 

信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で一番大いなるものは愛である。第一コリント13章」

 

神は、このような大いなる愛をもっておられるお方です。

 

「聖書にこう書いてある」ことよりも、「神の愛」は忍耐強く、情け深く、怒らない、礼儀に反しないことが最高の道だということを教えられます。

 

「神は、そのひとり子をお与えになるほどに、世を愛された。ヨハネ3:16」

 

「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、神を愛して、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。マタイ22章37~40」
 

神さまと同じく、この世の人たち(隣人)を愛することが、律法全体よりも重要だと教えられています。

 

 

さて、不思議なことがあります。

 

聖書解釈や神学では、福音派と無教会ではまるで違うことが多いのですが、「福音を伝える歌」と「賛美」では一致しています。

 

先ほどの第一コリント13章の「愛」のうたも、いくつも作られていますので、紹介しましょう。

福音派は「御言葉」に実直に作られていますが、私は無教会の信仰の二刀流で作りました。

 

まずは、福音派のクリスチャン歌手の方々の作品です。

 

 

 

福音派の信仰とおり、御言葉をそのまま伝えています。

 

次は森祐理さんが歌います。最初はメッセージで、後半が歌です。6分から歌が始まります。

 

このように、聖書に書いてあることに忠実ですね。

「信仰・希望・愛 その中で一番大いなるものは愛です」という教えは欠かせません。

 

 

次は私が作った第一コリント13章の歌です。

「信仰・希望・愛 その中で一番大いなるものは愛」という教えの代わりに

「身につけた愛は すべてを結び付ける絆です」という歌詞にしています。

 

また、二刀流なので、聖書に書いてある通りではなく、わかりやすく作っています。

絵も少し笑いを取り入れました。お笑いも好きなので