前回記事の追伸になります。プロテスタント福音派の教会では、「イエス・キリストを信じた者は永遠の命を得て、その救いは決して取り消されることはありません」と教える牧師が多いです。
ですので、福音派の教会の信徒たちは、命と平安をもって日々を過ごすことが出来ると思われます。
ところがぎっちょんちょん
福音派の教会の中で、非常に地獄行きを恐れているクリスチャンは少なくないのです。
その理由は、福音派の教会から出て行くとわかりました。
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まず、福音派の教会の真髄の教えは、「クリスチャンになれば永遠の命を得て天国へ行く、ノンクリスチャン(未信者)は滅びに向かっていて、そのまま死ねば地獄へ行く。キリストの救いとは、滅び(地獄行き)からの救いです。」ということです。
それは、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことは出来ない。ヨハネ10章27~28」の御言葉によるものです。
ですから、クリスチャンになれば永遠の命が与えられ、決して滅びず、だれも奪うことは出来ないと教えるのです。
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なので、福音派の教会では、地獄行きについての聖書箇所はすべて、ノンクリスチャン(未信者)は地獄へ行くと理解するように教えています。
クリスチャンは滅びることはなく、地獄に行くことは決してないからです。
しかし、ここに大きな矛盾と落とし穴があるのです。
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なぜなら、地獄行きについての聖書箇所をすべて確認すると、イエスさまはノンクリスチャン(未信者)ではなく、イエス・キリストを信じた群衆や弟子たちに教えているからです。
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前回記事はマタイ18章を紹介しましたが、さらに詳しく書かれてあるマルコ9章33~50節を見て行きますと
一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに言われた。
「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。
もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。
もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。
地獄ではウジが尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩はよいものである。
だが、塩に塩気がなくなれば、あなた方は何によって塩に味を付けるのか。
自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
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さて、この御言葉を読めば、家に着いて、家には弟子たちしかいないので、弟子たちだけに教えていることがわかります。
イエス様は、弟子たちが小さな者の一人をつまずかせると、地獄に投げ込まれる。
なので、片方がつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。と明確に教えられていることがわかります。
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マタイ4章25~5章30節にも同じようなことが教えられています。長くなるので抜粋します。
大勢の群衆が来てイエスに従った。イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「あなた方は地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや何の役にも立たず、外に投げられて、人々に踏みつけられるだけである。
兄弟に『ばか者』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
淫らな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。」
この有名な山上の垂訓で、地獄行きについての教えも、イエスに従って来た群衆と弟子たちに教えています。
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どうして、わざわざ山に登られたかと言えば、どこまでイエスに聞き従って来るのか確認されたと解釈している牧師たちもいます。
本来、大事な教えなら、イエスを信じない人たちも聞こえる場所で話すべきですが、イエス様は、つき従って来る人たちと弟子たちに限定されているのです。
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ですので、地獄行きについての教えは、ノンクリスチャン(未信者)ではなく、イエス様を信じて従って来た人たちと弟子たちに対して教えられていることがわかります。
ですが、他人に「バカ者、愚か者」と言ったり、情欲を抱いて女性を見れば、地獄行きぐらいの罪になるという教えは、クリスチャンだけでなく、ノンクリスチャン(未信者)にとっても抑止力になるので、心に留めておきます。
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あなた方(イエスを信じた人々)は地の塩だけど、塩気がなくなれば、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。という教えは、大きな衝撃を受けます。
その続きに「わたしに向かって『主よ、主よ』という者が皆、天の御国に入るわけではない。わたしの父の御心を行なう者が入るのです。
かの日には、大勢の者に、わたしはきっぱりと言おう「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ!」と教えられています。
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この「あなたたちのことは全然知らない。」については、こうも言われておられます。
「しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。マタイ10章33」
ですから、聖書信仰でいうならば、ペテロは3度もイエス様を知らないと、呪いをかけて誓った時は、そのまま死ねば地獄行きでしたね。
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さらにマタイ10章28で弟子たちに教えられていることが、ルカ12章4節にも書かれています。
「友人であるあなた方に言っておく。体を殺しても、その後それ以上何も出来ない者どもを恐れてはならない。
だれを恐れるべきか教えよう。それは殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ、言っておくが、この方を恐れなさい。」
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つまり、クリスチャンになれば、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っているイエス・キリストを恐れなさいと明確に教えられているのです。
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聖書を読めば、クリスチャンになれば、永遠の命が与えられるけれど、その後で小さき者をつまずかしたり、不法を働いたり、情欲で女を見たり、兄弟に「愚か者」と言ったりすれば、地獄に投げ込まれると、イエス様自身が明確に教えられているのです。
つまり、運転免許証のようなものかなと思いました。
運転免許証を取得すれば、更新手続きをしていく限り、死ぬまで運転免許証は取り消されることはありません。(現在は、高齢者に対して審査があるようになりましたが)
ですが、違反の罪を多く犯して点数がなくなれば取り消されます。
なので、クリスチャンになれば永遠の命を与えられますが、神の御目に違反の罪を犯していれば、取り消されるという認識になります。
ところがぎっちょんちょん
プロテスタント福音派の教会の教えでは、クリスチャンに対して地獄に投げ込まれると教えられているところを、ノンクリスチャン(未信者)に対して地獄に投げ込まれると教えているように思わせているのです。
巧妙にすり替えられているのです。
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ですから、福音派の教会の信徒たちの中で、地獄行きに対する恐怖を持っている人たちが起こされているのです。
ですが、聖書信仰であるなら、聖書を読めば、クリスチャンになっても地獄行きの可能性が高いので、地獄行きを恐れて、地獄に投げ込む権威を持っているイエス・キリストを恐れるほうが正しいのです。
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福音派の教会では、「ノンクリスチャン(未信者)は滅びに向かっていて、そのまま死ねば地獄へ行く。生前にイエス・キリストを信じないで死ねば、永遠に炎の中でもがき苦しむことになるのです。」という教えです。
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しかし、福音派の教会を出てから、聖書を読めばこういう教えになるでしょう。
天に向かって、つばを吐けば、そのつばは自分自身に降りかかるように、
本来は地獄行きについての教えはクリスチャンに対するものなのに、地獄行きの恐怖をノンクリスチャン(未信者)に対して教えるなら、それがそのままクリスチャンたちに降りかかっている事になります。
ですから、地獄行きについての教えは他人に言うべきではない。
もし言うなら、イエス様のように、クリスチャンに限定にすべきです。
ですが、十字架の贖いが成就した現在は、十字架上でのイエス様の愛を伝えるべきだと、パウロは教えています。
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神は愛です。
なので、神の愛を他人に教えるだけでいいと思います。
「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。
神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。
この世で私たちも、イエスのようであるからです。
愛には恐れがない。
完全な愛は怖れを締め出します。
なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には、愛が全うされていないからです。
私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。第一ヨハネ4章16~19」
ですから、神の愛だけを宣べ伝えてもよいでしょう。
完全なる愛は怖れを締め出します。
地獄という恐怖も締め出す力が、愛にはあるのですから。愛だけを知ればよいと思います。