神様の御業が起きる前に「虫けら」のようにされる時がある | ルーク4のブログ

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神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

聖書で有名な信仰者たちに共通していることがあります。それは「虫けら」のようにされている事です。
ダビデはサウル王に命を狙われて逃げていた時に、人々の前で気が狂ったふりをしました。
そしてサウル王と対峙した時に「イスラエルの王は一匹のノミを追っておられるのです」と訴えるくらい、自分は虫けら(ノミ)のようにされている心境でした。

ヨセフも奴隷とされて、その主人ポテバルの奥さんに対する「強姦未遂罪」で囚人となりました。
囚人の中でも奴隷の身分で主人の奥さんを強姦しようとした罪は「最低な罪を犯した者」と言われますので「虫けら」のような存在になります。

ダニエル、シャデラク、メシャク、アベデネコの4人は神様から知識を与えられ、バビロンのすべての知者に勝る知恵も与えられ「最高の知者」として用いられました。

しかしネブカデネザル王が夢の解き明かしに対する対応に怒り「知者をすべてを滅ぼせ!虫けらのように身を切り裂き、家を滅ぼせ!」と命じたため、ダニエルたちも虫けらのように殺されそうになりました。

またシャデラク、メシャク、アベデネコは虫けらのように7倍の炉に入れられました。
ダニエルは虫けらのように飢えたライオンの檻の中に入れられました。

しかし信仰者たちは「虫けら」のようにされても「神様を信頼し、ただより頼む信仰」に堅く立ちました。そのへりくだった信仰を神様は喜ばれて「神様の御業が起きて、神様の栄光が現されたのです」

イエス様も子ロバに乗ってエルサレムに入られた時、イスラエルの民は歓喜しました。
メシヤ(救い主)イエス様がエルサレムに入れば、ローマの支配から解放され、神々しい救い主イエス様が高いところに立ち、総督ピラトが虫けらのようにされる姿を想像したのです。

しかし現実は総督ピラトが凛々しく立っている横で、虫けらのようにされたイエスキリストが惨めな裸で傷だらけの姿をさらけ出しているのです。

まさに「わたしは虫けら、とても人とは言えない。人間のクズ、民の恥。わたしを見る人は皆、わたしをあざ笑う」詩篇22章7節の御言葉のようでした。

しかし、それは神様の御心であり御計画でした。イエス様が「虫けら、人間のクズ、民の恥」のようにされたのは、全人類の罪を贖われるという壮大な神様の御計画だったのです。

ですから自分自身が日雇い労働で「虫けら」のように見下され罵られることは、神様の御計画だと知りました。

日雇いの会社の方は「初心者歓迎」でした。しかし建築現場の方は「即戦力」を期待しています。日雇いでも即戦力が約3割いるからです。自分のような無知な初心者は2割くらいでしょうか。それで現場に行くと道具の名称もわからない、扱えないので「虫けら扱い」にされます。

しかし「虫けら扱い」を体験することによって、信仰が変わりました。

今までなら「神様から与えられた曲を歌うクリスチャンが与えられたら、その歌が広まることが神様の栄光を現わす。制作した本や映画が祝福されれば神様に喜ばれている信仰」のように考えていました。

しかし、へりくだる信仰。虫けらのようにされても「イエス様の十字架の愛・イエスの御名と流された血潮」によって「憎しみ、怒り、敵意」が遠ざかる。

相手の非道い悪の言動や行動をまともに受けるのではなく、イエス様が受けられてから自分が受けるので、憎しみや怒りで心が支配されることがなくなるという証を「音楽・本・絵本・映画」などに現わしていくことが、神様の栄光を現わすことになるという信仰にされたのです。

神様が「良し」とされた神様の時に、時が来ると実が成り、その葉は枯れず、何をしても繁栄することを信じています。