「一元に生きる」 「doing(行為)と being(存在)」 | ルーク4のブログ

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神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

 
  
一元に生きるとは、人は二元的に生きている「これは良い、これは悪い」 「幸と不幸」など
二つに考えてしまうのを、すべての事の中に大切な意味があり、たとえ最悪と思える状況の中にも必ず希望があるととらえる生き方です。

二元の考えは「できる、できない」 「うそをつく、つかない」と分けるが、
一元の考えでは「できても、できなくてもGOOD」 「うそをついても、つかなくてもGOOD」
行為(doing)よりも存在(being)の方を大切にするという生き方。

私はOKで、あなたはダメ! 私はダメで、あなたはOK! 私もダメで、あなたもダメ!ではなくて
「私もOK!あなたもOK!」と一元的に意識することでプラスがいっぱい見えてくるという生き方です。

この教えはY教会のT牧師が「トータル・カウンセリングスクール」を開講して、
特にクリスチャンたちに広まりました。

この一元で生きる信仰を確立させる第一原則が「お互いに裁かないこと」です。

しかし、この一元の生き方の信仰では成長しないことが判明しています。
友達がY教会の全国にある支部の一つのゴスペルハウスに所属していたので、何度か行きましたが、そこの教会の人たちや責任者は暗く、悩んでいるようでした。

Y教会の副牧師は2人とも「ウツ」になったそうです。
村上密牧師のブログでは、T牧師は不祥事を起こしたことが赤裸々に書かれていて、大きな反響を起こしています。

他のブログでも、T牧師を始め、T牧師の一番弟子や、他の弟子も不祥事を起こしたと言う事が具体的に書かれていたので驚きました。

なぜ不祥事を起こせるのか?それは罪が正当化されやすいと思われます。
ウソをついても、つかなくてもOK!人を裁かない!良い、悪いを分けない!というような信仰で生きるから、
女性に弱い男性なら、それを利用して、不倫しても、しなくてもOK!姦淫しても、しなくてもOK!
発覚しても裁かない!一元で生きているからね!という感じになるのでしょうか。

また、なぜ「ウツ」になるのか?それは一元で生きるための都合の良い聖書の御言葉だけの信仰になるからでしょう。

例えば、結婚してから、嫁さんが正社員で働いているのをいいことに、フリーターとニートを繰り返し、しまいにはヒモのような生活をしている男がいます。
聖書では、そのような男に対して「イエスキリストの名によって命じなさい!夢を抱いて働きなさい!」とあります。

また「気ままな者を戒めなさい!」とありますが、そのような戒めの御言葉は一元の信仰の妨げとなるので、聖書を読まなくなったり、一元で生きるというハードルの高さに悩み苦しんで
「ウツ」になると思われます。

ウェインコデイロ牧師のメッセージです。「神様の愛は、あなたがどんなに神を裏切ろうとも愛する愛です」
どんな悪いことをしても神様は愛してくださるのだから、神様の愛を利用することができ、
悪い目的や自己中心的な目的、欲深い目的のために何でも、どのようにしてでも正当化できます。操ったりもできます。

しかし、そのような生き方をすれば、神様が約束されている素晴らしい計画は消えてしまいます。
神様の愛はいつも存在します。あなたが良くても悪くても愛してくださいます。
その愛を利用するか、尊重するかで、あなたへの祝福の約束が消えるか、成し遂げられるかが決まるのです。

聖書に父と母を敬いなさいとあるなら、敬うことを尊重するなら、あなたは幸せになり地上で長生きするという約束が成就します。
神様を敬うと祝福の約束が、皆さんの人生に成し遂げられるのです」と語られています。

人は誰もが二元的です。いつも良い悪いと判断してしまいます。
神様だけが一元なのです。
その大きな愛に気付かされると、使徒パウロは「私は罪人の頭です!」と嘆くしかありませんでした。
しかしそのような罪人の汚なくてもろい土の器の中に、キリストが内住されていて、その大きな愛の神様により頼んだ時に、一元の愛が実現されるのです。

人がすべてのことに、一元で(神様のように)生きることは不可能です。
罪人である自分を素直に認めます。
私は自分では何も出来ません!しかし、キリストにあってどんなことでも出来るのです!

そして気ままな者は戒め、小心 者を励まし、弱い者を助けます。


すべての人に寛容であることが、自分の力ではなく、キリストに依り頼み、聞いて、従うなら出来るのです。