百花屋のブログ
Amebaでブログを始めよう!

◆2008年3月24日(月)

カエサルのガリア戦記を読了。


当時の戦況報告そのものだったため、昔の文化や風習を知らない自分にとっては、実感を持って想像することのできる場面が少ないのだけれども、それでも当時のガリア地方(現在のフランス)で起きていた戦争の規模が大きかったことの全体像は漠然と掴めた。2000年も前にして、堅牢な橋を建てたり、何万人という規模の軍隊を船でイギリスまで輸送したり、その間の兵士の宿舎だとか、食事だとか、遠くで生活するための困難は数多くあったはずなのに、それをものとせず度重なる戦争を勝ち抜いてきた当時のローマ人の強さや団結力はすごいと思った。そしてその何万人もの軍隊を一人でまとめ上げていたカエサルは本当に英雄と呼ぶにふさわしかったのだなと思う。


ウェルキンゲトリクス(ガリアの英雄。分かれていたガリアの属州をまとめ上げ、ローマに対して独立戦争を仕掛けた)との最後の戦いでも、援軍でカエサルの赤い戦衣が戦場に到着したのを見ただけでローマの兵士たちから鬨の声が上がり、彼らは鼓舞されて最後の激闘に力を出し切り勝ち抜いたのだとか。英雄と呼ぶのにふさわしいし、それが実際に世界の歴史に残した爪痕の大きさの桁も違う。遠い昔のことなので、十分な実感は掴めないが、多分今の新聞ならその事で記事という記事が埋まり、テレビは一日中同じことを報道するんだろうな。


ローマ人は偉大だ。というか古代において文明の未開拓な地点から独創的な文化を作り上げてきた人々というのは、人間の持つ想像力の豊かさを純粋な形で示してくれると思う。それくらいに、現代は何もかもが発達しきって行き詰まりの時代なのではないかと危惧してしまうことがあるのだけれども、それでも全ての人類が幸福だった時代というのはいまだかつて存在していないわけで。だから人間には物事を考え続ける義務が十二分にある。

読書は人間に知識と、物事に対する新しい見解という実りをもたらすものでなければならないと思う。


そうするとローマ軍の強さの秘密はなんだろうな・・・。こうして読んでみて自分が感じたことだけど、それは人々の団結と、それからスピードにあったのではないかと思う。移動の早さ、建築の早さ(土塁や投石器、堅固な橋など)カエサルの合理的で素早い決断、それに対する兵士達の厚い信頼。


ガリアの人々はローマ軍がたったの一日で現地で調達した木材から城を攻めるための巨大な兵器を作り上げたのを見て、これは神の仕業に違いないと恐れをなして城を明け渡してしまったらしい。しかしそうした事が起こる背景には、長い年月の蓄積と過去からの学習が多分にあったはずだ。文明というのはひとりひとりの人間が起こした波の集合体のようなものだと思う。あるいは、ローマの水道橋の構造そのものだろうか。つまり、橋脚と橋脚が重力という永久不変の力に楔を得て重なり合い、その最上部に都市の命となる水が流れる。戦争は常にその時代の最先端の科学を必要としていて、ローマはそこにあらゆる成果を発揮した。一見すると奇跡としか思えないような偉業の背景には、常にどんな時も莫大な蓄積があると考えて良い。ギリシャ時代からの人々の哲学、農耕、軍事、合理性。ローマは一日にして成らずというのは、言葉の上での気取りではなくて、本質だ。歴史を物語として垣間見ると、そうした言葉の震えの大きさが伝わってくる。


スピードか・・・。自分の弱い部分だ。努めて強化するようにしよう。スローライフが叫ばれ、老子は文明の過剰な発達を良しとはしない。しかし仕事が速いに越したことはない。午前中に全部の麦を刈り入れて、残りの時間は団欒に当てる。大切なことだ。人間の絆というのは時間をかけなければ育たない。そして絆がなければ私達は何をする事にも理由をもつことが出来ない。分かってくれるね?全てが正しいあり方で回ってこそなんだよ。それをぶち壊すようなことをするのは、あまりにも大きすぎる罪悪じゃないだろうか。


他者の幸福に対しては寛容でなければならないし、それを守り育てようとする心は美しいと思う。それが本当に理知的な精神のあり方だ。そこに本物の愛情の泉が湧いているのならば、それは周りの人さえ幸福にする。


人の一面を見てその人を判断することはあまりにも大きな過ちだ。因果という言葉があるが、現象には必ず何らかの原因がある。腐ってしまったかのように見える人、皮肉な笑いを唇に浮かべている人ほど痛ましいものはないと思う。この言葉には全幅の信頼を持っていい。人間は美しい生き物だ。しかし不当な仕打ちの中で心は光を見つめる気持ちを失っていく。遠い昔に心に突き刺さったとげは未だに抜けていない。それを溶かしてくれるものは本当の愛しかない。人々はそのことに対して暗い。盲目といっていいほどに、小さな事に心を奪われているがそれは違う。目を開かなければならない。私自身も含めて。


悲しみは心の深い場所、愛が存在しているのと同じ場所にあり、私達はそれを本当に救う手立てこそえを考えなければならない。間違った言葉で非難を浴びせることは、解決への道のりを二つに、三つに折り、心を永遠の悲しみの中にさ迷わせることだ。私達は落ち着き払った賢者のふりをして一向に構わない。なぜならそれが本当の姿だからだ。


長い日記になった。しかしこの旗は掲げておこう。
日々流れ込む雑音と、私達の盲目や怒りがそれを歪めるだろう。
それでも私はこう信じている。
全ての人間は善良で神々しい、愛すべきものだ。


私は目を見開いてその奥底を見つめている。