宇宙の理」2012年8月号
昼下がりのコーヒーブレイク
「自己確立と共同創造5」 より
前生のおもいで(志摩川友重著)を参考に掲載許諾済
小金井の要約と所感を加えたものを今回リライトしています


ちょっと「自己確立と共同創造」がここのところ空いてしまっていて久しぶりです。
今日の記事は1年前の雑誌への投稿をリライトしたものですが、昨日の記事とも関連があります。


自己確立の下地

いつかどこかで書きましたが(このブログでも何度も書いていますが)、日本民族は神と直接繋がって共同創造を為しやすい民族です。
集団的行動が多いのも、その質はユートピアと比べたら、石切りの精神状態と比べたら、雲泥の差とはいえ、現在の地球というこの荒い波動下ですら、それなりに全体を表現してきた民族です。
だからこそ、世界から見たら考えられないような奇跡をその統一性の下で幾つも起こして来ました。

日本民族は、石切りの教師が教えた「何もしないことをする」ということを世界で一番実行している民族なのだと思います。
「何もしないことをする」ということは、思考の空間を超越した次元の意識の空間に至ることを言い、そこに唯一全体と調和するエネルギーの大元があります。
だから全体意識と共にあるために「何も考えないことをする」こととなります。

何かをするために「何も考えず、何もしない」のです。
するためにしない、するために考えない、のですが、目的がない訳ではないのです。
目的が全体としてはあるのですが、個人のレベルで目的を考えてしまうとその次元と繋がれないのです。
これに関してはまた関連したことに触れて近々記事にします。

「思考の空間」という次元に私たちが囚われている限り、私たちは真理とは繋がることはできないのです。
思考しない次元と繋がるために、私たちは思考に嵌まらないように思考の間にスペースを作って思考を常に調整する必要があります。

「真理」と言われるものは思考なきこの唯一絶対の調和の世界から降りてくるエネルギーであり、それは基本的には変動をしません。

しかしその一方で、真理はすべての側面を持っていて、その側面(普遍性)が私たち一人ひとりの「何もしないことをしている」思考の空間の隙間にある無思考のスペースに降りてきます(実際には自分の立ち位置が動いている)。
本来それは思考と呼べるものではありませんが、それこそが本当の自分のエネルギーであり、真理の通り道を経由した純粋な意識であり、大いなる不変の意識の側面、真理の普遍性なのです。


自己確立は判断しない純粋な意識から

天変地異が起きたときに慌てふためかない日本民族。最悪の危機に常に全体に思いが行く日本民族。火事場の馬鹿力が純粋な意識を動かします。

突然ですが、「天変地異が起きて、瓦礫の下に自分の家族と見知らぬお婆さんの2人が閉じ込められていて、あなたは時間の関係で一人しか助けられないとしたら、どちらを救いますか?」

昔、この質問を或る人にしましたら、
「その時になってみないと分からない」と言いました。
 またある友人に尋ねましたら、
「そんな質問をすること自体間違っている」と不満げに言いました。

マイケル・サンデル米ハーバード大学教授の教室で出そうな質問ですが、前者の回答は思考を超えた「意思」に委ねようとする姿勢で、後者は思考の「意志」のエゴに触れたくないという姿勢です。

動物の場合は飼い主を助けるかも知れませんが、動物は「意思」でも「意志」でもなく、本能で行動します。
いつの場合も人間は、愛と呼ばれる全体から一人ひとりに降りてくる純粋な意思に行動を委ねることが理想です。
「人間は考える葦である」というフランスの思想家、パスカルの格言がありますが、人間が本来辿りつく至上の意識は、何もしないことをする空間からやってくる意識、思考以外の何も考えない空間からやってくる意識です。
「先ず家族を助けるのが第一」とか「愛は差別しない」とかの観念を持つこと自体が既に意識の制限に嵌まっている自我からの発想です。

心を洗った意識が、魂の純粋な自己意識へと導きます。

― つづく ―