「政治・社会 フザケるな!石原 都知事時代は勤務平均59分 時給13万円 」
上記はゲンダイネットの記事のタイトルです。
私は何年も前から知っていましたが、改めて開いた口が塞がりません。
《前回選挙から、たった1年8カ月で、老害知事の突然の「都政ブン投げ」のため、知事選に再び支出される税金は約50億円にも上る。全くフザケた話だが、石原の税金ムダ遣いはこれだけじゃない。そもそも、高額報酬に見合うほど働いていないのだ。 (中略) 1400億円を投じた新銀行東京や、4000億円をつぎ込んでも進展ゼロの築地市場移転、失敗した16年の五輪招致にも100億円を使ったりと、結局は巨額の都民のカネをドブに捨ててきたようなものだ。》
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3歳の女の子を誘拐殺人した20歳の男に無期懲役の判決が出ましたが、痛ましい事件でご両親の悲しみはとても計り知れません。
多分、お母さんは小さな子どもを一人でトイレに行かせたことの非難を受けているでしょうし、また反省もしていて二重の悲しみでしょう。
どんな悪人であろうと、唯一絶対でありワンネスである全体意識の一部として、その役割を終えるのですから。
その「悪」がどんな役割を持っていたのかは、その時点では知る由もありませんが、その人がいなかったら他の人がその役割を代替することになるのは間違いのないところです。
そんなこともあって死についてちょっと考えてみました。
死というものは悲しいものという概念がありますが、本来死は悲しいものではありません。
人生の儀式には大きなものが3つあります。
誕生、結婚、そして死です。
どうして最後の死だけが悲しいのでしょうか。
それは私たちが、すべてがワンネスで繋がっていることを知らない、ユートピアでない星に生きているからです。
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先日、施術先を終えて主婦の方とお話していて、以前、お母様の死を家族全員で納棺まで立ち会ったと聞きました。
確か体を拭いてあげるとか儀式に自分たちも参加して、とても厳かで神聖な中で、粛々とした納棺式が経験できたと感動されていました。
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本木雅弘が構想し自ら主演した映画で、2008年のアカデミー賞外国賞を受賞した「おくりびと」は、納棺士を主役にした映画でした。
愛する家族の死やペットの死を迎え悲しい経験を持つ人は多いことでしょう。
(私はまだないのです)
この死に対して、私たちは無力です。
地上に生きている生命体として、いつかは肉体を離れるときが必ず来るからです。
それでも私たちは愛するものの死を止める(コントロールする)ことはできません。
「逝かないで」「死なないで」・・ という場面を私たちは様々の物語として見聞きしてきました。
しかしできることなら悲壮感なく、心静かに人の死を見送りたいものです。
いま私にそのような人がいるわけではありませんが、ふと、そんな思いが湧いてきました。
死後の納棺の儀式が神聖で厳粛なのは、死者が在が侭、為すが侭であるからなのかも知れません。
昨年の3月に私の89歳の父があの世に旅立ちました。
亡くなる3年ほど前は酷いアルツハイマー型の認知症で、最後の半年は父に会っても、父は家族のことは判りませんでした。
最後は病院のベッドで点滴を打ちながらの数カ月、意識もほとんどありませんでしたが、いま思えば、良く言えば思考のない状態・・とでも言いましょうか。
それはそれで一つの舞台の緞帳が尊厳を保って降りるというものだったと思います。
苦しみもせずに長寿を全うした訳で、悲しみというものは全くありませんでしたが、現代社会は悲しい死に様、悲しい別れが余りにも多すぎます。
しかし意識の持ち方ひとつで、つまり全体意識からすれば、その悲しみも全体の中のひとつの進化プロセスとしての役割でもあるのです。
全体意識の中から悲しんでいる自分を観ることが、自分にとってどれほどの癒しとなっているかが、最近分かってきました。
アメリカがハリケーン・サンディで大変なことになっています。
しかしそれでも、すべてを自分のこととして受け入れないと、出来事をそのままの重みとして正面から受けなければなります。
http://www.cnn.co.jp/usa/35023777.html
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