明日、交通事故に遭って死んでしまうかもしれない。
明日、宝くじに当たって憶万長者になるかもしれない。
明日、体調を崩して病院に行ったら末期ガンだと告げられるかも知れない。
明日、異性と恋に落ちるかもしれない。

これらの喜怒哀楽を感じるのは私(大我)の一部ですが、私の一部を私の全部と考えている私(小我)は、一喜一憂のすべてを今の自分の出来事として受け入れます。
しかし私と思っている私は真の私のほんの一部でしかありません。
私は真実の私でなくて、脳と思考に囚われ考えているところの私だけを私と思っています。

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そしてその観念から一時たりとも放れることができません。
私たち大人はいつも考えているので無邪気さを失っています。
考えていない犬も猫も、生まれたばかりの赤ん坊から小さな子供まで、まったく考えていなかったりほとんど考えていないので、無邪気そのものなのです。

私たち大人も、考えないという無思考の時間を出来るだけ作り出して行かねばなりません。

本当の私を大海原に譬えてみます。
肉体と心の私は土や岩という体を着て島になったようなものです。
その島には川が流れ全体の海と僅かに繋がっています。


例えば悲しいとき、
この島という「心と体」に悲しみが一杯になります。
でも海という全体意識のポジションに立つことができれば、大我の理性の英知を得ることができるのです。

島の自分を全体の一部として関連付け、そのストーリーの意図を観ることができます。
私たちが全体を観じることができたとき、私たちはそのストーリーの意図を語ることができます。



 意識のビジョン・・相川昌一氏制作 
 (出典ザ・コスモロジー) 


島である私から海である本当の私を見ても、本当の私のすべてを観ているとは言えません。
何故ならば本当の私は、大海原だけでなく深海までも含めた、目に見えない深遠なる意識だからです。



小我という島の私に押し寄せる、私にしてみればすべての出来事は、本当は自分の一部の足元に押し寄せる波にしか過ぎないのです。
雨にも風にも、そして台風にも、深海にある私たちの真の意識は揺さぶられることなくビクともせずにただ存在しています。
そこには平和な今があります。


小我という私に起きてくることも、今日雨が降り明日晴れ渡ることも、朝太陽が昇り、やがて沈み夜になることも、小我という私にコントロールできることではありません。
何者もこれらを制御することはできません。

できることは超越することです。
それは自然と共に生きるということであり、受け入れるということであり、大我の自分に着くということでもあります。
私にできることは、受け入れて、超越して、自然と共に全体意識の中に生きるということです。

小我の私たちが人と触れ合うとき、すべての人が自然の一部として自由意思を持っている限り、人の自由意思もコントロールすることはできません。

今の地球の至るところで私たちは不調和を創造しています。
でも、私たち一人ひとりが本当の私と呼べる大我・真我の世界に入ったとき、そのストーリーを共有している不動の私たちという全体意識を感じることでしょう。

― つづく ―

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